カテゴリ:礼拝説教( 7 )

息を吹き返す

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、
自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
・・・
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

ヨハネによる福音書20章 19,22節


鍵がかかった扉、
そこに弟子たちの苦しみがにじみ出ています。
イエス様の弟子だとバレると自分たちも処刑されてしまうかもしれない、
そんな恐れに苦しみ閉ざした扉。
イエス様を見捨ててしまったという後ろめたさと傷、
この苦しさは誰にも理解してもらえないと閉ざす心。

心の扉を固く閉ざす中に、
その真ん中に、イエス様はおられるのだとわかったこと
それもまた復活のイエス様との出会い、
弟子たちが息を吹き返す物語となりました。


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by nazarene100 | 2018-04-15 10:30 | 礼拝説教 | Trackback

不器用な歩みにこそ

ちょうどこの日、二人の弟子が、
エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。 (24:13-14)

「一切の出来事」
それはただ出来事を話し合ったのではなく、
悲しみも後悔も、心の嘆きのすべて、
皆の前では話せなかった心に抱えたすべてのことを、
二人きりになって初めて弟子たちは重い口を開き
ぽつりぽつりと水滴が落ちるように語りだす、
互いが自分のことを語り、互いが相手の言葉に耳を傾ける――
そんな不器用な歩みにイエスは付き合って、一緒に歩き始めます。
そのイエスに気づけなくても大丈夫。
これまで聞き流してていたイエスの言葉と思いはいつかきっと、
一人ひとりの人生の危機の中で甦ります。

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by nazarene100 | 2018-04-08 10:30 | 礼拝説教 | Trackback

立ち上がれない場所でこそ

イエスは言われた。「恐れることはない。
行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。
そこでわたしに会うことになる。」
マタイによる福音書28章 10節

復活とは、
「再び、起こされること/立ち上がること」を意味する言葉です。
では、立ち上がれずにいるわたしは不信仰なのだろうか。

「ガリラヤ」――弟子たちとかつて過ごした懐かしい土地、
そのガリラヤで再び会おうというイエスは
十字架で人から捨てられる悲しみを知るイエス、
墓の中で立ち上がれずにいる痛みを知るイエス、
そこから起こされる喜びを知るイエスです。

起き上がれずにいるあなたの「ガリラヤ」、
そこもまたイエスと出会う場所となります。


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by nazarene100 | 2018-04-01 10:30 | 礼拝説教 | Trackback

わたしの内なる二人

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

ルカによる福音書 23:39-41


十字架のイエスの両隣り。

同じように十字架に磔られた二人の犯罪人。

自分の苦しみしか見えない犯罪人と

イエスの苦しみにも目を向ける犯罪人。

この二人が私の内側に棲んでいる。


ある時には、人は自分の苦しみしか見えない。

でも、それは大切なことです。

あなたの苦しみは、あなたが一番気づいてあげられるのですから。

けれど、別の時には、もう一人の犯罪人があなたの中に現れてくる

イエス様の苦しみを見つめるあなたが。

そして、その時、気づくのだと思います。

私たちが自分の苦しみや弱さや心配しか見えなかったときも、

イエスが隣りで、一緒にその痛みを背負っていることに。


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by nazarene100 | 2018-03-26 03:02 | 礼拝説教 | Trackback

悲しみに目を閉ざさず

「わたしは死ぬばかりに悲しい。」

 マタイによる福音書26:38


弱音を吐くイエス。

この苦しみから逃げたいと現実逃避の祈りを神にささげるイエス。

そんなイエスが弟子たちに訴えたこと。

それは「目を覚まして、一緒にいてほしい。」という願い。

それは単なる居眠り禁止というお咎めの言葉ではなく、

悲しみに目を閉ざすな、という切なる願いでした。

目を覚まして、自らの弱さを隠さずにむきあうこと。

イエスの悲しみに、世界の悲しみに、

あなたの悲しみに目を閉ざさないでいること。

ゲツセマネの園の祈りは、悲しみに向き合う祈りです。


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by nazarene100 | 2018-03-18 18:00 | 礼拝説教 | Trackback

わたしも引き裂かれた

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
マタイによる福音書26章 26節


イエスはひとりぼっちです。
深い孤独の底でパンを引き裂くイエス。
彼だけが感じていました、これが最後の食事になると。
いつもの仲間といつもの食事、変わらぬ風景に
弟子たちは誰もこれが最後だとは思っていません。
これが最後だとわかっていたら・・・。
この先、彼らは取り返しのつかない後悔を抱くことになります。

いつ訪れると知らぬ「最後」に対して私たちは無力です。
しかし、そんな「最後」に、後悔と自責の念で引き裂かれるあなたに
イエスは遠く離れていません。
引き裂かれたパンとして、あなたのそばにいます。
“わたしもたった一人ぼっちで引き裂かれた” と。

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by nazarene100 | 2018-03-12 10:53 | 礼拝説教 | Trackback

 礼拝説教<要旨>「人を汚すもの」 

2011年3月27日 礼拝説教<要旨>
マタイによる福音書15章1~20節
「人を汚すもの」 久米淳嗣牧師

 今、放射能汚染への恐れから、口に入れる食料品や飲料水へ神経を尖らせています。近くの花見川区の浄水場からも基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたと聞くと私たちは不安になるばかりです。そんな中でこのイエスの言葉はどう私たちの胸に響くでしょうか。想像してみてください。もし、イエスが福島県産のほうれん草と牛乳を手に持って、あるいはコップに摂取制限された水道水を入れて、この言葉を語ったとしたら。「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と。

 現在、日を追うごとに放射能による大気や土壌への汚染の深刻さが明らかにされています。できるだけ正しい情報を得て、特に次世代への健康被害が出ないよう冷静な対応を取りたいと思います。けれども、たとえ放射線を帯びた食物であっても、この私の存在そのものを汚すことはない。(あってはならないことですが)たとえ健康には障害が出たとしても、命そのものを汚すことはできない。むしろ人の存在を汚すとするならば、それは私たちの「口から出るもの」であるとイエスは言うのです。福島第一原発の事故で県外に避難した被災者が、福島から来たと言う理由で、旅館やホテルで宿泊を断られたという問題が起きていると報道されました。
 なんということでしょう。確かに放射能は恐ろしいものです。しかしそれ以上に恐ろしいのは私たち人間の心であり、口から出る言葉です。ある地域から来たという理由で、「この人はに汚染されている」と、拒否し、排除てしまう振る舞いや言葉こそが、相手の存在そのものを否定し、本当の意味で汚してしまうことのではないかと思います。その意味でも、このイエスの言葉は、恐れと不安で混乱している今こそ、私たちが耳を傾けるべきものではないでしょうか。

 マタイ15章では「手を洗うこと」について、イエスとファリサイ派の人々、律法学者たちとのやり取りが起こります。イエスと弟子たちは食事の前に手を洗いませんでした。
それは衛生的な問題というよりも、むしろ宗教的な問題であり、食前に手を洗うことは、汚れた人や物との関わりを断ち切ることをも意味しました。しかしイエスは、自分だけが手を洗うことで関係を断ち切ったりしません。
 むしろイエスは、社会から「汚れた者」と見なされた徴税人や遊女、罪人たちの友として生き、そして最後には呪われし死刑囚、罪びととして、十字架につけられました。あえて手を洗わない側、汚れているとされた側に立ったのです。

 この出来事の少し前、イエスは五千人を超える群集と野外で食事を分かち合いました。選ばれたものだけが参加できるヘロデ大王の宴会と違い、それは様々な人々に誰にでも開かれた食卓でした。社会から排除されのけものにされ、疲れ果てていた人々をイエスが誰彼となく招いていた野外での食事。それは、「汚れなどというレッテルは関係ない。神様はあなたのことをかけがえのない存在として、見守っておられる」という思いが伝わってくる、身も心も温まり、癒される食事だったでしょう。

 残念ながら、原発事故の影響により、「汚染」という言葉をたびたび見聞きする機会がこれから増えて来るのだと思います。汚染・けがれというレッテルが、ある地域に、またこの国に暮らす私たちの身に負わされることになるのかもしれません。しかし、そんな現実があるからこそ、イエスは、あの言葉を語ったのです。
 「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
誰と誰が触れ合っても、人が汚れることなどない。人を汚すものがあるとすれば、それは私たちから出るもの、誰かを排除しようとする言葉や振る舞いにほかならない、と。神は全ての命をかけがえのないものとして愛している。そう伝えてくれるイエスを救い主としてお迎えしたいと思います。

 そして、今後の復興や社会の行く末への不安がある中でもどうしたら悲しみの中にある、疲れ果てた人びとの心と体が癒されていくのか、私たちにすべきことは何かを神に問い、行動していきましょう。手を洗って、あなたと私は違うと関係を絶つのではなく、手を取り合い、共に生きる喜びへ導かれる者でありたいと祈ります。
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by nazarene100 | 2011-03-27 10:30 | 礼拝説教 | Trackback