平和はどこから

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平和はどこから

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
マタイによる福音書5章9節


「誰でも良かった」――加害者の口から吐き捨てられるお決まりの言葉。残虐極まりない事件そのものは勿論のこと、この言葉とわがままな動機に怒りと恐怖を覚えます。「殺すなら誰でも良かった」とは、あまりに身勝手過ぎます。
悔しさと憎しみから、「許せない、犯人を殺してやりたい」と声を詰まらせる被害者の遺族の方々の姿。誰もが自然と同情し、共感するでしょう。そして気つけば、第三者の私たちまでもが声をそろえるのです、「殺してやりたい」と。
ああ、なんということでしょう!それまで穏やかに普通の暮らしをしていた人です。それが突然の悲劇によって、愛する人を失っただけでなく、殺意を抱く人間へと変えられてしまっています。のみならず直接関係のない第三者の私の心の奥にまで、殺意が芽生えているのです。この、人が本来持つべきではない願い、「殺したい」という願いの先に、希望と慰めを見出そうとしても、そこには救いはありません。果てしなく広がる深い闇へと、私たちは迷い込んでいくだけです。

「誰でも良かった」――この殺意は、なんと聖書にも描かれています。そんな理不尽な殺意を抱く大勢の人々によって、キリストは十字架につけられて、叫び声をあげます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。それは、まさに理由もなく命を奪われていった被害者の苦しみの声そのものです。しかし十字架の上でキリストは更に祈るのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
この祈りは、怒りと殺意、復讐と報復の連鎖という闇に覆われた現代世界にも向けられています。悲しみと悔しさに捕らわれて復讐を願う人びと。そうだ殺せ!と同調する暴力的な私たち。そんなすべての人に、キリストは今も赦しを告げます。世界を覆う闇を克服し、真の平和が訪れるには、この祈りによって私が赦され、生かされていることを知り、互いに赦し合うことが求められています。

暴力や争い、悪のない世界を願うとき、まず滅ぼさなければならないものは、一人ひとりの心の奥底に潜んでいる怒りや憎しみ、そして殺意です。この世界において、最も平和が失われている場所である私たちの心から、平和が実現するよう祈り求めていきましょう。
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by nazarene100 | 2008-08-01 00:00 | ショートメッセージ | Trackback
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