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2021年11月28日待降節第1主日礼拝式

★礼拝の映像中継をYoutubeでご覧いただけます。


★説教の音声中継は11時前後から行っています。
*動画も音声も後日に視聴することが可能です。

2021年11月28日待降節第1主日礼拝式次第

【神をたたえる】
招きの詞      
賛  美  91「それ神はそ独り子を」
罪の悔い改めの祈り
賛  美  69「エサイの根より」
聖  書
献  金
主の祈り
賛  美  64「父なる神」
祝  福
【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
交読詩篇  交読文32 
賛  美  67「わが心は」
旧約聖書  イザヤ書11:1-5 
新約聖書  ヨハネの手紙一5:1-5  
礼拝説教  「うちかつ」
【聖徒の交わり】
信仰告白  使徒信条
賛  美  458「光の高地に」
報  告
感謝ととりなしの祈り
頌  栄  66-6「今こそ来ませ」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~~
礼拝説教「うちかつ」
イザヤ書11:1-5、ヨハネの手紙一5:1-5

 新共同訳聖書は聖書本文に加えて小見出しがついています。これは元々の聖書には書かれていません。翻訳した聖書協会が内容に沿って付けたものです。今日の箇所5:1-5では「悪の世に打ち勝つ信仰」という、何とも勇ましい小見出しがついています。悪の世に打ち勝つ信仰って何でしょう?世の中には勝った/負けたが溢れています。学校の成績に始まって、仕事での成果、お隣さんとの暮らしぶりの比較、ありとあらゆる競争に私たちは投げ込まれます。挙句の果てに、人生の「勝ち組」「負け組」などと、まるでこの人生そのものがすべて勝負であるかのような嫌な評価をする言葉も使われています。そんな世の中にあって、せめて教会くらいは、勝ち負けの物差しではない世界、つまり、みんなが優しく迎えられるところであってほしい。疲れた者、重荷を負う人たち、心が折れ、打ち負かされそうになりながらも、優しいイエス様が迎えてくれる。そうあってほしいと願います。けれど、今日の小見出しは世に打ち勝てと言わんばかりです。教会でも、聖書の世界でも結局、勝負の世界が続いていくのでしょうか。一体、私たちは世の何と戦い、打ち勝たなくてはいけないのでしょう。

 そんなことを思いながら、昨日、クリスマスの歌の練習をしました。その日は歌うのが三人だけだったので、オルガニストが気を遣ってくださって「オルガンに負けないように」と励ましつつ、ストップの数を少なめに(音のなるパイプの数を少なめに)してくれて、歌う人に優し~くして弾いてくれたので、辛うじて負けませんでした。もしもオルガンが本領を発揮して音を響かせると、歌い手の声は負けてしまう、つまりかき消されてしまうでしょう。消えないように精一杯大きな声で歌ってました。オルガンの音色は美しいので、私のダミ声はかき消してくれて一向にかまわないのですが、ああ、そういうことかと腑に落ちました。打ち勝つ、それはかき消されてしまわないこと。
え、久米さんも歌ってたの?全然聞こえなかったよと言われるかのように、消えてなくなったりしない、ちゃんとその歌声が響く、届くこと。もちろんオルガンは敵でも悪でもなく、私たちの礼拝の友ですが。けれど、負けないこと、打ち勝つことの意味を教えてくれたように思います。ちゃんとあなたの歌声を響かせなさい、届けなさい。それが負けないこと、打ち勝つことなのだと。思えば、このヨハネの手紙はくりかえし打ち勝つことを伝えています。いや、すでに打ち勝っていると繰り返し語ってきました。

若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。(2:14)

子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。(3:14)

教会の中に浸透してきた誤った教えやつまずきとなる悪いもの、それらにあなたがたの存在はかき消されたりなどしていない。すでに勝っている、克服していると告げてきました。そして今日の箇所でも再び、あなたがたは打ち勝っていると告げます。

神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(5:3c-4)

 小見出しのように「悪の世」とは一言もヨハネは言っていません。神から生まれた人は、この世の中でかき消されて、見えなくなったりしない打ち勝っていると告げます。でもどうして、負けていない、打ち勝っているとヨハネは言えるのでしょう。ヨハネの時代、クリスチャンはまだまだ数も少なく、小さな小さな群れです。その上、ヨハネ教会は多くの友が離れていき、分裂をしたり、さまざまな痛みを抱えていたはずです。それでもなお、悪い者に、偽預言者に、世に、打ち勝っていると断言します。こう言い切れるのは、どうやら神様からいただいた掟があるからのようです。神の掟、すなわち、人を愛し、兄弟姉妹を愛すること。この掟があるからこそ、私たちは世に勝っている、決してかき消されたりなどしないそう繰り返し核心を語ることができるのだと思います。

さて、その掟について、こんな言い回しをしています。

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、産んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。(5:1)

 幾分ややこしい言い方です。私たちがイエスを救い主と信じるとき、私は神から生まれた者であることに気づかされる。そうして生んでくれた神様を愛する人は、同じように神様から生まれた他の人を愛するようになると。つまり、神様を愛するというのは、人を愛するということ。どちらか一方ということはなくて車の両輪のように、神を愛する時、人を愛するし、人を愛する時には神を愛しているのだとヨハネ流の言い方をしています。でもこれはヨハネのオリジナルではなく、旧約聖書からずっと教えられていることです。レビ記19章では、神様だけを拝みなさいと教えた後、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいと命じられています。イエス様もこれを聖書の教え、律法の教えの中で、最も大切なものとして、神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいと語りました。ですから神を愛し、神から生まれた隣り人をも愛する、ヨハネの言っている掟は、律法やイエス様の教えから受け継がれてきたものでした。

 そこで興味深いことがあります。聖書が「人を愛しなさい」と命じるとき、具体的に何をするのかも教えてくれているのです。
例えば、先ほどのレビ記で隣人を愛しなさいと命じられていますが、その際、農作物の収穫で零れ落ちた、いわゆる落ち穂を貧しい者や寄留者のために残しておかなければならないと極めて具体的に教えるのです、それが愛するということだと。イエス様も神と人を愛しなさいと漠然と教えるのでありません。その直後に善きサマリア人のたとえ話を語るのです。つまり傷つき倒れた旅人を、敵対する民族であるサマリア人が助けたあのお話です。

 レビ記もイエス様も精神論でただ漠然と愛せと伝えるだけではない。何をすることなのかを具体的に教えてくれます。愛するっていうのは、独り占めしない、困っている人のために残すこと。愛するっていうのは、目の前に傷ついた人を助けること、こちらの事情は脇に置いて。この掟があるから、貧しいときにも負けてしまわない。この掟があるから、傷ついたときにも打ち勝つことができる。貧しさや暴力にかき消されてしまうこともない。なぜなら、落ち穂を残して助けてくる人がいるから。近くに寄ってきて助けてくれるサマリア人がいるから。

 実際、落ち穂で助けられ、貧しさに負けず、かき消されることがなかった人、そんな人物の物語が、旧約聖書のルツ記です。ルツは夫を早くに亡くし、夫の母・姑のナオミと一緒にナオミの故郷に帰ります。ナオミは子どもを、ルツは夫を失い、何もかも失った二人。ナオミに付いて来たものの、ルツはモアブ人、つまり外国人です。異教の地で夫の母と二人、何もかも失った中で生きていかねばならない。どれだけ心細かったでしょう。そんな中、ルツは一人、異国の地で、収穫の後の畑に落ちている大麦の穂を拾います。しかしその落ち穂が彼女たちの生活を支えるのです。

 内村鑑三が不敬事件の後、このルツ記を読んでいたそうです。第一高等学校、今の東京大学の講堂で教育勅語に最敬礼をしなかった、天皇の名が記された勅語に軽く頭を下げただけとは不敬だと多くの誹謗中傷を浴びて、体調を崩し、東大を辞職します。そうして大阪、熊本、京都と転々とする中で家族と共に読んでいたのが、ルツ記でした。寄る辺のない異国の地で不安に過ごすルツと自分の姿を重ねたのでしょう。しかし、ルツと内村を結びつけるのは不安だけではありません。ルツは不安な中、精一杯生きていました。年老いた姑のナオミを優しく労り、懸命に落ちた農作物を拾い集めました。貧しさと苦しさの中で、しかしルツは既に神様の恵みの中に生きていました。その落ち穂を拾っていた畑が元夫の親戚ボアズという人のもので、彼女は再び結婚をすることができ、人生を回復していきます。内村鑑三もただルツの貧しさと自分を重ねただけでなく、逆境の中にある神様の恵みを祈り求めたのでしょう。神を愛し、人を愛するその掟に支えれたルツ、そして内村鑑三。そこには、誹謗中傷に、貧しさに負けない、かき消されない、打ち勝った人の姿があります。愛の掟によって、貧しさや傷に打ち勝つのです。

 神を愛し、神から生まれた人を愛する。それは人生の嵐の中でかき消されることなく打ち勝つための掟なのでしょう。レビ記は独り占めしないで貧しい人に残すこと、それが愛することだと教えます。イエス様は目の前の傷ついた人を助けること、それが愛することがと言います。そしてヨハネはそれに付け加えるのです。

誰が世に打ち勝つのか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。(5:5)

愛すること、打ち勝つこととはイエス様が神の子だと信じることだと。貧しさの中に、傷ついたところに、同じ人間となってやって来て、
本当に同じように貧しく生き、十字架で傷ついて、私たちと共におられる。そう信じることで、私たちは世に打ち勝つことができる。この世の貧しさや傷、悪に負けて、かき消されることがない。生かされていること、この世に生を受けたこと、この人生が神に愛されたものだと知る、それが愛を行う力となるのだから。イエス様を信じること、それがあなたの人生を愛し、隣り人を愛することにつながる。独り占めしない、傷ついた人を助ける、愛を行うことで世に負けない。この、世に打ち勝つ愛の掟は、私たちにとって神様の恵み、そのものです。


# by nazarene100 | 2021-11-28 10:30 | 礼拝説教

2021年11月21日三位一体後第25主日礼拝式

★礼拝の映像中継をYoutubeでご覧いただけます。


★説教の音声中継は11時前後から行っています。
*動画も音声も後日に視聴することが可能です。

2021年11月21日三位一体後第25主日礼拝式次第

【神をたたえる】

前  奏 
招きの詞      
賛  美  165「栄光イエスにあれ」
罪の悔い改めの祈り
賛  美  92「その夜ダビデのまちの」
聖  書
献  金
主の祈り
賛  美  64「父なる神」
祝  福
【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
交読詩篇  交読文19 詩篇第51篇 
賛  美  220「恵みの光は」
旧約聖書  イザヤ書30:15 
新約聖書  ヨハネの手紙一4:17-21  
礼拝説教  「おそれ」
【聖徒の交わり】
信仰告白  使徒信条
賛  美  364「わが主イエスよ ひたすら」
報  告
感謝ととりなしの祈り
頌  栄  61「御恵みあふるる」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~~

20211121日礼拝説教「おそれ」

イザヤ書30:15、ヨハネの手紙一4:17-21


 今週もまた愛し合いなさいとヨハネの手紙は伝えます。「またか」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私もです。私たちが人を愛そうとするとき、神様が私たちの内側にいて、私に人を愛する力をくれますよ、イエス様のように生きることができると、そう語り始めます。ずっとこの手紙を読んでいますからあまり目新しい感じは致しません。同じ話ばかり書いてしまうのはヨハネさんがもうお爺さんだからでしょうか。どうやらそうでもなさそうです。同じようなことを書いていながら、人が人を愛すときに起こる、一つの落とし穴について、今回の箇所では語っています。いつもと同じようでいて、また少し違う。わたしたちの毎日もそうかもしれません。いつもと変わらない日常、いつもと同じ風景、いつも同じ人とのいつもの会話、一見そう見えるかもしれないけれど、実はそこに新しいものが生まれている。今日の手紙では、愛そうとするとき、それを恐れが邪魔をするというのです。


愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。(4:18)


 愛について語るときに、恐れというのは少し畑違いな話にも聞こえます。愛するの反対は何かと聞かれたら、憎むことや怒ることなどを考えるかと思います。或いはマザー・テレサが愛の反対は無関心と教えた通り、冷たさとか自己中心的なエゴ、わがままなどが愛を邪魔しそうなものです。でもヨハネは冷たい人、無関心な人、憎しみを抱く人は愛することができない、そんな風には言わないのです。恐れる者には愛が全うされていない、本当に愛することができていないと言います。どうして恐れると、愛せないのでしょうか。


 少し前の箇所で、ヨハネは旧約聖書のカインの話に触れていました。弟のアベルと共に神様にささげものをした兄弟の話です。あの時、兄カインは大地の実り、農作物を神様にささげました。弟アベルは飼っていた羊の群れから羊の赤ちゃんをささげました。どちらも良いものをささげたはずです。ささげものというのも感謝のしるしであり、恵みを与えてくれた神様への愛のお返しとも言えるでしょう。ところが神様は弟アベルのささげものには目を留めたけれど、兄カインのささげものには目を留めなかったと聖書は伝えています。神様はカインのささげものを気に入らなかったのか、或いはその年のカインの収穫は神様の祝福を感じられるような豊かな収穫がなかったのか、どういう状態であったのか諸説ありますが、とにもかくにも、カインはささげものをもって神様を愛したのに、神様は目を留めてくれなかった。愛したけれど、その見返りがなかった。その時、カインは激しく怒って顔を伏せ、神様からも顔をそむけます。そして嫉妬からか弟アベルを殺してしまうという物語でした。


 愛しても、その愛しただけの見返りがないとき、手ごたえが失われるとき、恐れるのかもしれません。一つ前の朝ドラでも津波で愛する母を失った青年が、人を愛せずにいました。なぜなら誰かを大切に思い、愛してしまうとき、その大事な人を失うのが怖い、だから愛せないという悩みを抱えた青年でした。せっかく愛したのにそれが失われる、愛するからにはずっと一緒にいてほしい。その愛に応えてほしいと思うのは人間の自然な感情かもしれません。愛したけれども、思い描いていたような反応が返ってこない。愛したけれども、その人を失ってしまう、確かにそれは寂しいこと、怖いことです。だから人は愛した分だけ、その見返りを求めてしまうのかもしれません。

 またヨハネは、恐れは罰を伴うとも書いています。つまり罰が恐ろしいから兄弟姉妹を愛する、それは愛ではないというのです。「罰」というのは激しい言葉ですが、嫌われたくないからといえば、もう少し身近な表現になるでしょうか。あの人に嫌われたくないから、この人のご機嫌を損ねたくないから、周りの人に良く思われたいから、あの人も、この人も、周りの人も愛する。罰が怖い、嫌われるのが怖い、だからそうならないように相手を愛する。


 これらは皆、愛しているようで、取引、交換にすぎないのかもしれません。良いささげものをしたのだから、私が愛したのだから、神様目を留めてください、祝福してください。私が愛したのだから、私を嫌わないでください、私を評価してください、愛したのだから、よい子に育ってください、ずっと傍にいてください。怖いのは、愛したのに返ってこないこと、祝福がないこと、嫌われること、見返りがないことです。でも、そうした恐れに基づいた、取引のような愛は完全な愛と呼べないのでしょう。ですからヨハネも完全な愛は、恐れを締め出しますと断言します。恐れる者には恐れから取引のように愛する時には、愛が全うされていないと告げるのです。

 完全な愛のお手本を探そうとしたら、イエス・キリストを見るのが一番なのですが、ほかにもいくつかあります。例えば、ヨハネが伝えた物語の中にイエス様が5千人に食べ物を与えた出来事があります。これは四つのどの福音書にも記されていますが、けれどヨハネの福音書にだけ、登場する一人の少年がいます。ほかの福音書では弟子たちの手元に五つのパンと二匹の魚があったことだけ報告されますが、ヨハネ福音書だけが、それが少年の持っていたものだと記しています。


シモン・ペトロの兄弟アンデレがイエスに行った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。(ヨハネによる福音書6:8,9)


 ヨハネはその現場にいましたから、大変この出来事の報告も詳しいのです。皆が座ったところに草がたくさん生えていたと書いているのもヨハネだけです。大勢の群衆がお腹を空かせていて、イエス様がこの人たちにどうやって食べてもらおうかと弟子たちと悩んでいるのを見た、一人の少年が、自分のお弁当を差し出してきた、彼の姿にヨハネは感動したのでしょう。だから、この少年のことに一言触れずにはいられませんでした。けれども、この少年の捧げものに対して、他の弟子たちの反応はそっけないものです。


けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。ヨハネによる福音書6:9)


 弟子たちはささげる、与える、愛するという行為の結果、見返りを考えているのです。これっぽちのパンと魚では、何の成果、見返りも期待できない。大勢の群衆のみんなに喜んでもらえない、もっと食べ物を用意しろと怒り出すかもしれない。ささげても意味がない、役に立たない、だって見返りが期待できないから。


 でも少年は何か見返りを期待していたでしょうか。いいえ。少年はイエス様がどうしたら皆に食べさせられるだろうかと悩んだ姿を見て、困ったイエス様を助けたい、それだけの思いでパンと魚を差し出しただけです。イエス様から、ぼうや偉いねと褒められることも期待してなければ、弟子たちから、こんなんじゃ足りないよと叱られることも恐れていません。ただ自分にできることを、困った人に差し出す。完全な愛には恐れがない。見返りも求めない。ヨハネはこの少年の姿に、愛のかたちを見たからこそ、彼のことを記したのでしょう。

 

 余談になりますが、近頃、若者の献血離れということがあるそうです。若い人たちが献血しない。しかしその一方で若い人たちは積極的にボランティア活動をします。不思議な現象なのですが、年配の人にボランティアをする理由をアンケートすると「社会が良くなるように」という理由が来るそうです。しかし若い人たちがボランティアをする理由はありがとうと感謝されると嬉しいから、喜ぶ顔が見たいからという理由が上位に来るそうです。つまり、愛を注いだ分、すぐに見返りが来るからというのが理由のようです。一方で献血は、目の前に輸血する人がいるわけではないので、その注いだ愛の見返りがすぐに返ってこない、目に見えません。だから人気がないのでしょう。でもその愛は、どこまで言っても交換、取引でしかないように思えます。むしろあの少年のささげたパンと魚こそが、愛するとは何かを教えてくれます。

 そして何よりイエス様の姿が、見返りを求めず、恐れに基づかない愛を伝えています。十字架で命をささげたことは言うまでもありませんが、愛の教えの中にもそれは現れています。弟子たちの足を洗ったとき、イエス様はこう言われました。


わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書13:34)

 

 イエス様は、私があなたがたを愛したのだから、あなたたちもわたしを愛し返してね、裏切ってどっかに逃げていなくならないでねと、見返りを求めたり、失うことを恐れていません。ただ大切な存在として弟子たちを愛し、その足を洗い、命をささげたのでした。恐れと見返りに基づいた交換とか取引ではない完全な愛をイエス様の姿は示しています。この人を見るべきです。

 とは言え、弱い私たち人間は、愛したのだから、恋人よいなくならないでと恐れ、愛したのだから、よい子に育って、と見返りを求めます。だからこそヨハネは言うのです。


 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(ヨハネの手紙一4:19)

 

 もう私たちは愛をいただいている、その事実にヨハネは目を向けさせてくれます。もうたくさん神様から愛をいただいている、それなのに、何を畏れ、何を見返りとして求めるのか。神に愛されたのだから、それをイエス様の十字架で知ったのだから、今度はわたしたちも人を愛そう。目の前の人を愛することで、目に見えない神様を愛することになるのだからと。愛の掟は難しい、厳しい掟のようでありながら、その実、わたしたちを自由にしてくれる憐れみ深い教えです。取引や交換、見返りや恐れにがんじがらめになってしまった私たちを解き放ってくれます。もう何も恐れなくて良い、ただ与えなさいと。イエス様が言われた通りです。


ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイによる福音書10:8)



# by nazarene100 | 2021-11-21 10:30 | 礼拝説教

2021年11月14日三位一体後第24主日礼拝式

★礼拝の映像中継をYoutubeでご覧いただけます。


★説教の音声中継は11時前後から行っています。
*動画も音声も後日に視聴することが可能です。

2021年11月14日三位一体後第24主日礼拝式次第

【神をたたえる】
前  奏 
招きの詞      
賛  美  166「威光・尊厳・栄誉」
罪の悔い改めの祈り
賛  美  487「ダビデは野原で」
聖  書
献  金
主の祈り
賛  美
祝  福
【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
交読詩篇  交読文10 詩篇第31篇
賛  美  219「われを見出し」
旧約聖書  イザヤ書53:4-6  
新約聖書  ヨハネの手紙一4:7-16 
礼拝説教  「ここに」
【聖徒の交わり】
信仰告白  使徒信条
賛  美  216「ここに真の愛あり」
報  告
感謝ととりなしの祈り
頌  栄  62「天つ み民も」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~~
礼拝説教「ここに」
イザヤ書53:4-6、ヨハネの手紙一4:7-16

キリスト教の核心ともいうべき美しい愛の賛歌が語られています。「神は愛なり」。しかし、愛とはどれだけ美しい言葉で説明をして伝わるものなのでしょうか。愛するってどういうことなのか、何をすることなのか。愛されているとは、どういう状態のなのか。数学の問題を解くように、机の上で鉛筆とノートを広げて、頭で考え、書物で調べ、答えが分かる、これが愛だと解けるようなものではありません。実際に、誰かから私たちが愛された時、その愛に触れて気づけたとき、「ああ、これが愛されるということか」と体験を通してしか知れないように思います。親、家族、友人、先生が自分を愛してくれた、その確かに触れることのできた体験が愛を教えてくれて、そしてまた自分も同じように誰かを愛そうとすることができる。誰かから愛された恩返しのように他の誰かを愛することができるのでしょう。ですから私を愛してくれたその親も、友人もゼロから誰を愛したわけじゃない。愛された経験がないのに、愛を知らないのに、私を愛したということはないはずです。きっとかれらもまた誰かに愛してもらえたから、私を愛してくれたのだと思います。と言うことは、私を愛してくれた親を愛した、その親がいて、その親の親を愛した、また別の誰かがいて・・・とずっと辿っていくと愛の始まりに行き着くはずです。最初に愛を始めた人がいるはず。皆誰かから愛されて恩返しのように他の誰かを愛するのだけれど、最初の最初に、誰かに愛されたわけでもなく、自ら愛することを始めた人、愛の出発点になった人がいるはずです。

 ヨハネはそのはじまりこそ、神だと言うのです。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

 愛というのは神様から始まりましたよ、だから愛することができる人、その人は神を知っていることになりますと。なるほど、うーん。でも、これだけだとなんだか理屈っぽいです。そりゃ神様だから愛の始まりなのでしょうけれど・・・。しかし、ヨハネは理屈をこねているのではありません。かれにははっきりとここに神の愛があると肌で感じた体験がありました。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(4:9-10)

 これも教会で何度も聞いてきた、キリスト教の教えです。神様は私たちの罪を赦すために独り子イエス様をこの世に送ってくださった、このイエス様が十字架で犠牲、いけにえとなることで私たちは赦され、救われている。ヨハネはこれを教会の教え、としてではなく、繰り返し、ここに、ここに愛がある、ここにとその体験を強調します。少なくともヨハネにとっては、これは頭の中の数学の問題ではありません。かれ自身が、ああ、ここに神の愛が現れているじゃないかと知る出来事に遭遇したのです。

 十字架の場面。
 四つの福音書はみな、イエス様が十字架にかけられた時の周りの人々の姿も伝えます。マタイ、マルコ、ルカ、この三つの福音書では
十二人の弟子たちはみんな逃げて、この十字架の場面にはもちろん登場しません。どこかに隠れていたのでしょう。十字架の側にいたのは死刑執行をするローマの兵隊たちだけです。しかし女性の弟子たち、イエス様の故郷ガリラヤからついてきた婦人たちは遠くから十字架にかけられたイエス様を見守っていました。あまり近づくとイエスの仲間ということで捕まるかもしれません、離れたところで、しかし心配そうに見守る女性たち、マグダラのマリアや、弟子たちの母が大勢の女性の中にいたと、三つの福音書は語ります。
ところが今日の手紙を書いたヨハネ、このヨハネによる福音書では十字架の側にいたのは兵士たちだけではありません。離れたところに大勢の女性たちが見守っていたということも記していません。十字架のそばにいるのです。

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に、「婦人よ、御覧なさい、あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時からこの弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネによる福音書19:25-27)

 誰もがこの恐ろしい十字架刑という処刑場から逃げ出してもおかしくないところ、しかし、そこに踏みとどまり、十字架の下にとどまり続けた人たちがいました。母マリアたち、4人の女性と愛する弟子。言い伝えでは、この愛する弟子と呼ばれて、たびたび福音書に出で来る人物こそ、福音書を書いた張本人、ヨハネだと言われています。その言い伝えが本当なのか分かりませんし、一体彼らは遠くから見守っていたのか、それともそばにいたのか曖昧です。しかし物理的な距離はどうであれ、少なくとも愛する弟子ヨハネにとっては、その目に焼き付けられた、イエス様の姿はすぐそばにあると感じられたのでしょう。荊の冠を被せられ、鞭打たれ、唾を吐かれて、ボロボロになって十字架に着く姿。どうして、こんな目に遭ってまで神の言葉を伝えようとしたのか、どうして、私たちのためにここまでするのか。神を愛して人を愛しぬいた果てに十字架の上で変わり果てたイエスの姿を見て、ヨハネは何を思ったのでしょう。

 残念ながら、福音書には愛する弟子やマリアが何を思ったのかは記されていません。あれから何十年の月日が過ぎたでしょうか。あの十字架のそばで見上げたイエス様の姿を年老いたヨハネは片時も忘れていません。そしてあの時、触れたもの、あそこで知ったものを、今日の手紙で告白しています。ここに愛があります。わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があると。最後の最後まで弟子たちを、人びとを愛し、最後まで自分のことではなく、母マリアをよろしくとヨハネに託し、母マリアにはこのヨハネをあなたの子だと思ってくださいと最後の息耐える瞬間も人のことを思って、命をささげた。その姿に触れて、ここに愛があるとヨハネは信じ、そして私たちに教えます。

***
作家の井上ひさしは自身がキリスト教信仰をもつようになったきっかけをエッセイの中で幾度か書いています。かれは家庭の事情でラ・サール・ホームという孤児院で育ち、そこで洗礼を受けるのですが、それはキリスト教の教理を理解したからとか納得したからではなく、そこで出会った宣教師としてやってきた修道士たちを信じたからというのですね。井上には親はいたのですが一家バラバラで、一緒に暮らしている友人たちには親がいない、そんな友人たちに国も天皇も何もしてくれないのに、この修道士たちのやさしさはなんだろうと心惹かれていきます。

なにが先生方のこのやさしさを作り出しているのだろう。そう思ううちに「この先生方の信じているものなら、それが何であれ、自分もそれを信じよう」と考えるようになった。・・・わたしが信じたのは、はるかな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉をすこしでも豊かにしようと、荒れ地を耕し、人糞を蒔き、手を汚し、爪の先に土と誇りをこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは手垢と脂汗と摩擦でテカテカに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちだった。わたしは・・・キリストを信じる檻衣の(ぼろを纏った)修道士を信じ、キリストの新米兵士になったのだ。

 どうしてこんなにやさしくしてくれるのか、自分たちはボロボロのままで。修道士たちのやさしさはどこから来るのかと考える井上は
かれらの信じているものを自分も信じようと洗礼を受けます。この後、大学に入って、そこで贅沢に学問している修道士にはつまずくのですが・・・。しかし井上ひさしの心のそばにずっととどまっていたのは、ぼろを纏った修道士たちのやさしさだったでしょう。そしてヨハネと同じように井上もいつまでもその姿を忘れなかったのでしょう。ここに愛がある。このやさしさ、愛は神から来ると。聖いきれいな神様が天の上から人間を眺めているのではなく、この地上にボロボロになりながら人々に愛を、優しさを見せてくれた。イエス様と修道士たち。12節で「いまだかつて神を見た者はいません」という通り、神様は目に見えないし、いま直接にキリストに会うことはないとしても、私たちはここに神の愛、キリストの愛が確かにあると触れることができます。

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(4:12)

 「とどまる」という言葉もまたヨハネが繰り返し語る言葉ですあの日、十字架の下にとどまり続け、イエス様の姿を目に焼き付けたように。あのイエスの愛に、やさしさにとどまろうとします。ヨハネの教会には迫害があり、異端との対立があり、教会の分裂など様ざまな苦難が続きます。井上ひさしも大学の綺麗な格好をした修道士に躓きます。けれどもその度ごとにこの愛にとどまろう、神の内にとどまろう。十字架を遠くから見守るのではなく、そのそばでこの愛に触れよう、あのやさしさを思いだそうと。それが互いに愛し合うことの力となっていくのです。

神は愛です。愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。(4:17)

 教会のなすべきことは、ここに神の愛がある、そう感じられるようなやさしさを人々に届けること、愛を説明するのではなく、その手と言葉で人を愛することだとヨハネは教えてくれます。とは言えその難しさはヨハネもよく知っています。分裂する教会の現実の中で敵対する人たちにこの手紙でも冷たい言葉を投げることもありました。この寂しさ、この冷たさ、この怒りはどこから来るんだろうというのが現実です。けれどもヨハネは神の霊が私たちに分け与えられているのだから、神の思い、神のやさしさ、それをもらっているのだから、ここ(わたしたち)に愛があるのだから、わたしたちにもできると確信して励ましてくれます。今度はわたしたちが愛する番です。



# by nazarene100 | 2021-11-14 10:30

2021年11月10日 聖書に親しむ会

*11月17日の聖書の親しむ会は、インターネットの不具合により配信できなかったため、原稿を掲載しています。


創世記16

 聖書は神について教えてくれる書物です。それと同時にまた人間とはどんな存在か、人間のあるがままの姿をありありと語ります。人間の持つ美しさや尊厳と共に、人間の抱える罪やその悲しみについて雄弁に語っています。特に創世記16章では、女性が置かれていたところ、女性たちを背負わされいた過酷なものとそこに顕れる神の憐れみについて伝えるものです。

 物語はアブラムのお話の続き。アブラムは神の祝福を受けて、その子孫が繁栄することが約束されていました。つまり家系が途絶えないということ、すなわち女の子ではなく男の子が少なくとも一人与えられるという約束のはずでした。けれどもその約束によって、今日の物語の悲劇が起こされます。まだアブラムとサラには子供がなく、二人とも年老いていた、人間の目には子供を授かることが困難に見えました。そんな時の様子をローマの信徒への手紙の中ではアブラムの信仰が称えられて、こう綴られています。「およそ百歳になっていて、すでに自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながら、その信仰は弱まりはしませんでした」と。けれど、この手紙を記したパウロも男性で、その信仰が称えられるアブラム、アブラハムもまた男性です。でもそんな男性たちが互いにほめたたえる信仰の陰で、女性たちが大きな苦しみを背負うことになっています。この物語は単なる美談にしてはならない、見落とされてはならないものがあり、現代においても繰り返し読み直されなければならない物語のひとつです。

さて、1節で二人の女性が紹介され、サラが神様の約束を守るため、家系を途絶えさせないためにある提案をします。

1: アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。2: サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。

当時の社会の有り方は私たちのそれとは大きく異なります。女性が子どもを産むというのが女性の使命として重視されていました。そんな時代の中で、神様の約束はアブラムにとっては祝福だったかもしれませんが、サライには希望を見出せるものではありませんでした。「主はわたしに子供を授けてくださいません」、つまり「神様は約束を守ってくれません」という告白にどれほどの彼女の痛みが込められているでしょう。そして女奴隷をアブラムに差し出し、その女性によって子供をもうけてほしいと願い出るしかなかった。当時、女性は嫁入りの際に本家から、身の回りの世話をする奴隷も一緒に連れて行ったようです。夫に別の女性を差し出さなければならないという過酷な現実。男性のパウロが絶賛し、男性のアブラムが祝福を受ける物語の陰の部分です。こうして差し出せれたのが女奴隷と呼ばれるハガルです。

3:アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。

エジプト人、外国人でした、ハガルは。同じイスラエル人の奴隷は何年かすると解放されるのですが、外国人奴隷というのは永久に奴隷です。自由の身になることはありません。そしてハガルが自ら望んだわけでもなく、奴隷としてアブラムの子を産まされることとなる。これだけでも十分に女性たちのつらい歴史が見て取れますが、物語はさらに身ごもった後に起こった悲劇を報告しています。跡継ぎを身ごもったハガルが主人でサライを軽んじるようになったというのです。

4: アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。

これをサライは当然面白く思いません、そこで不満を夫アブラムに告げると、アブラムは自身の責任については何も触れず、われ関せずと問題を女性たちに放り投げます。

5: サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」

6: アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。

ここは読み方によっては、サライは神様が子どもを与えてくれないとか、ハガルが私を軽んじたとか、こんな目に遭ったのは夫のせいですと人のせいにばかりしてる、不信仰な姿というとらえ方もあるでしょうけれど、しかし、サライの「あなたのせいです」という夫にぶつける悲痛な叫びは真っ当な言葉です。確かに神様の約束を信じてもっと待つこともできたでしょう。しかし神様の約束が実現しない現実の責任をすべて女性たちが押し付けられ、女性たちだけが傷ついている。挙句の果てにアブラムは「女奴隷はあなたのもの、所有物なのだから、好きにしたらよい」と問題がサライに丸投げされ、そしてモノとして扱われた女奴隷ハガルは主人から冷たく扱われ、とうとうハガルはアブラムたちのもとから逃亡するしかありませんでした。ここまで一度もハガルはアブラムにもサライにも名前を呼ばれていません。この物語のナレーターがエジプト人の女奴隷ハガルと紹介していますが、アブラムからもサライからも名前さえ読んでもらえません。モノでしかない奴隷のハガルが、子を宿した母として、モノではなく名前を持った一人の人間として生きようとしただけです。それだけで主人を軽んじていると言われ、更に冷たく扱われて、主人のもとから逃げなくてはならない。女性と子どもだけでは生きていけない社会ですから、ハガルが主人のもとから逃げることは、死を意味します。つまりハガルをもはや死を自ら選んだといって良い、そういう場面です。聖書の中でも最も悲しくつらい場面の一つです。

そこに神様が語りかける、アブラムからもサライからも、誰からも名前を呼んでくれなかったハガルに、神様は(ここでは御使いですが、神様ご自身が語ったと受け取れるでしょう)名前をもって呼びかけます。これは単につらい人に神様が寄り添ってくれたというだけでなく、本当にこの世界、社会の中で神様が誰を助けるのか、誰に目を注ぐのかがはっきりと示されるところ、辛い物語ですが、聖書の真髄が表されています。

8:「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、9: 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」10:主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」

「サライのもとに戻りなさい、従順に仕えなさい」という言葉が現代でも議論になるところです。どうしてつらい場所にとどまれなければならないのかという批判もなされます。DV被害から非難した女性にどうして暴力の現場に戻れというのかという疑問へ現代では当然のものですが、しかし女奴隷がシングルマザーとして生きていける世界ではありません。つまり主人の家を出ることはすなわち、このまま死ぬしかない状態です。ハガルは自分の命、人生を投げ出そうとしていたわけです。ですから、この帰りなさいという言葉は、暴力を肯定するものではなく、「人生を捨ててはいけない、あなたの人生に戻りなさい。」「死んではいけない、つらくともあなたは生きよ」という神様から語りかけ、人生の肯定の言葉として受け止めたいと思います。

そして神様が聞き入れるという意味の名前のイシュマエルという子供が生まれ、たくましく生きる姿が予告されます。この約束を聞いて、ハガルが神様を賛美します。そしてこの賛美、これが聖書の中で初めて、神様を名付けたものとなります。イエスは神様をアッバ、父と呼び、マタイ福音書はインマヌエル、神我らと共にいますと神様の名前を名付けました。他にも万軍の神とか救いの岩とか聖書の登場人物が色々な仕方で神様を呼びますが、最初に神様の名前を、自らの信仰や自らの体験と結びつけて、その名前を自分なりに読んだのはこのハガルが最初の人物です。

13:ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。

私を顧みられる神、私を見捨てない神、ハガルは神の名をそう名付けて呼びました。そしてこの神様と出会い、言葉を交わしたこの場所、井戸の側であったので、この井戸も後々まで名前をもって呼ばれる井戸となりました。

14:そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。

この井戸はのちにも出てきます。それもやはり、人びとから見捨てられた、そういう悲しい状況、失意の中にある人が、この井戸にやってきて、そしてそこで神様の導きに出会う、まさに神様が顧みてくれる井戸となります。が、それはまたのちのお話です。

これまでアブラムによってサライがエジプトの王様に差し出されてしまう、そんな悲しい場面もありました。現代でも女性が今なお不利な状況にあるのは変わりませんが、更にさらに厳しかった時代にモノとして扱われ、そのためにサライとハガルがぶつかり合うことになった、一方で男は責任を逃れ続ける、そんな人間の愚かさや悲しみがあますところなく描かれている物語ではあります。けれど神はそこで、もっとも痛みを抱える、負担を強いられる人たちにこそ耳を傾け、その声を聞く。イシュマエルという名前の通りにその悩みを知っておられ、エル・ロイ、わたしを顧みる神として、生きよと告げる。神はこの世界のどこに顕れるのか、誰と共に生き、誰の戦いを支え、共に戦うのかを教えてくれます。

勿論私たち一人一人、みんなのことを顧みてくださって聴いてくださる優しい神様のお話でもありますが、それだけで終えてはいけない物語です。神が誰と共に生き抜くのか。女主人のもとに戻るハガルが最も過酷な道でしょう、またそれを迎えるサライもまた、心穏やかではない日々を過ごすことになります。しかしそんな痛みを抱える人たちを決して忘れていない神様の眼差しは、今この社会において、私たちが誰のために祈り、誰と共に生きるのか、それを神は私たちに問いかけています。


# by nazarene100 | 2021-11-10 11:59 | 礼拝説教

2021年11月7日三位一体後第23主日礼拝式

★礼拝の映像中継をYoutubeでご覧いただけます。


★説教の音声中継は11時前後から行っています。
*動画も音声も後日に視聴することが可能です。

2021年11月7日三位一体後第23主日礼拝式次第

【神をたたえる】
前  奏 
招きの詞      
賛  美  121「恵みの主イエスよ」
罪の悔い改めの祈り
賛  美  81「諸人声上げ」
聖  書
献  金
主の祈り
賛  美  64「父なる神」
祝  福
【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
交読詩篇  交読文38 詩篇第121篇
賛  美  99「馬槽の中に」
旧約聖書  エレミヤ書23:25-29 
新約聖書  ヨハネの手紙一4:1-6 
礼拝説教  「みわける」
【聖徒の交わり】
信仰告白  使徒信条
賛  美 216「ここに真の愛あり」
感謝ととりなしの祈り
頌  栄 60「天地こぞりて」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~~
2021年11月7日礼拝説教「みわける」
エレミヤ書23:25-29、ヨハネの手紙一4:1-6

 先月、地区の壮年会の集会がオンラインで行われました。私たちの教会でも礼拝堂で中継をするかたちで皆さんと参加しました。タイトルは「ナザレン教団の現状と課題」という何とも難しそうなもので、幾つかの講演がなされました。そのタイトルの通り、教会の現状というものがデータで分析されました。今やどの教派の教会も少子化で厳しい状況にあるかと思いますが、それを改めて数字やグラフで映し出されると、心が折れそうになります。あちこちの教派で教会が閉鎖され、統合されている実態があると。「ああこれは大変な時代だなあ」と聞きながら気持ちが凹んでいました。しかし集会の後、そうやって沈む私にある方が話しかけてくれたんです。なんだか気持ちが暗くなるようなお話でしたねと言うかと思いきや、今日のお話良かったですねと言うのです。そして、改めて伝道しようと心が燃えてきましたと。同じ講演を聞きながら、こうも受け取り方が違うという。素晴らしい受けとめ方でした。確かにその講演の中では厳しいデータを並べただけではなくて、だからこそ簡単に人間の思いだけで教会を閉じてしまってはいけない、礼拝を何より大切にし、身近な人たちに証していく者となるために、教会の歴史を愛し、教会の歩みを続けて行こうと語ってくれていたのです。そこに心を燃やすものがありました。それなのに心配性の私は怖い話の方ばかりに心が集中してしまっていたわけです。人間は自分の見たいように見、聞きたいように聞いてしまう生き物ですが、私は本当に聞くべきものを聞いているだろうかと問われました。

イエス様はあるときになぜ人びとがイエス様の言葉を聞きとれないのかと嘆いたことがあります。

わたしの言っていることがなぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。 ヨハネ福音書8:43

そう語ってから、悪魔の偽りの言葉に耳を傾けて、真理を聞こうとしない、そんな人々のことを悲しんでいます。

わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのだ。同上8:46

このイエス様の言葉を伝えるヨハネによる福音書を記したヨハネ、かれは今日の手紙において、真理を聞き分けなさいと言います。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。ヨハネの手紙一4:1

 霊というと神秘的なもの、何か目に見えない霊魂のようなものをイメージしがちです。しかし聖書の語る霊というのは息であり、風とも訳せる言葉です。ですから、私たちの口から息を吐き出すとともに言葉が出てきて、祝福の言葉であれ、呪いの言葉であれ、人間の色々な言葉が集まって世の中の空気となり、風となり、私たちに吹き付ける、或いは優しく頬を撫でます。日々、風と息を受けています。つまり、「どの霊も信じるのではなく」とヨハネが言うとき、私たちの目や耳に入って来る言葉、心に吹いてくる世の中の風、空気、そういった諸々のことを何もかも鵜呑みにしてはならないというのです。それが神から出た言葉や教えであるかをちゃんと確かめなければなりません。ヨハネの教会に吹き荒れていた偽りの教えというものはイエス様を否定するものでした。イエス・キリストは神なのだから実際には人間になどなっていない。この肉体という脆く、醜い、穢れた物質に聖なる神はふさわしくないし、イエス様は人間の姿のように見えていただけで本当は肉体を持っていない。そう考えて、聖なる神は人にならないと信じる風が、ヨハネ教会に吹いていました。ヨハネは偽りの風に気を付けるとともに、あらゆるものが神から出たものであるかどうかそれをきちんと見分けるように教えています。

 とは言え、どうやったらそれを見分けることができるのでしょう。そもそも私たち人間に神の思いのすべてを知ることができません。前の段落でも神の心は私たちの心よりも大きいと記されていました。私たちの出遭う出来事、人生の岐路で選ばなくてはならない選択肢、
人から貰ったドバイス、講演会で聞いたお話、それらのうち、すべてをうのみにせず、どれが神から出たものかどうか、それが偽りのものでないのか、どうやって知るのでしょう。聞き分けられっこないとさえ感じてしまいます。でもイエス様は、あなたたちは聞き分けることができると言います。ヨハネが書き残した福音書のイエス様の言葉にこうあります

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立っていく。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。 ヨハネ福音書10:2-6

 この喩えの羊が私たち、羊飼いがイエス様です。羊は羊飼いの声を知っているから、その声だけに従っていくことができる。ほかの者、偽りの声を避けることができる、私たちはイエス様の声、その息、風、霊を聞き分けることができると。

 おそらく聞き分けるコツ、それはひとつです。そして私たちはその声を知っています。冒頭にお話したエピソードのように、心が燃やされるかどうか。復活のイエス様に出会った弟子たちのように、心が燃やされるかどうか。語られる言葉、聞く言葉、それが私たちに信仰を呼び起こさせ、希望を抱かせ、愛を感じさせるかどうか。それが神から出たものであるかどうかを聞き分けるコツです。反対に、私が同じ講演を聞きながらも不安と怯えに心が支配されたように、偽りの教えであったり、イエス様の声を聞き取れないときは、たいてい、恐怖や不安、脅えに基づいた息、風、霊が吹いているものです。

 今もなかなか減らない特殊詐欺、オレオレ詐欺なんてその最たるものです。母さん、会社のお金なくしちゃったんだよと怯えさせる声、息づかい。還付金がもらえますよ、受け取らないとですよと不安にさせる声、風、偽りの霊。確かに少子化や格差社会、気候変動など
この社会の将来を思うと不安や怯えを覚えることばかりです。けれども、それらの問題を直視しつつ、それを克服する希望を語ることも人間にはできます。同じ出来事に直面したとしても、人は怯えを語ることも、希望を語ることができます。にもかかわらず、それが脅えと不安だけを伝えるものであったり、或いは意見の異なる人の人格まで否定するよう呪いの言葉であるなら、それは神から出たものとは到底思えません。

 ヨハネの教会に吹き荒れていた偽りの霊、風もそんな脅えに基づいていました。「イエス・キリストが人となって世に来られた」、この事実を希望としてではなく、自分たちを脅かすものとして受け取ってしまったのです。人間の肉体というものは弱いものです。さまざまな欲望が湧き、誘惑され、衰えてを感じさせる肉体に悩まされるのは事実です。だから自分たちのこれまで信じてきた聖なる神様が、そんな弱くて、価値のない、罪深い肉体を持つはずがない、と怯える。だからイエス様が人間になったなんて嘘だ、なるはずがない、そう見えていただけで、本当に大切なのは肉体ではない、この霊魂の救いであって、肉体に纏わるこの世の日常のあれこれは重要ではないと考えて、兄弟愛さえもないがしろにされていきました。

 それに対して、ヨハネの教会は、そして後々の教会は神の子が人となった、主イエスは肉体をもって人間となったということに脅えではなく、希望を見出しました。神は私たちから遠く天の彼方から人間を眺めているのではない。私たちの同じ人間となり、人間の抱える悲しみや痛みを、神が味わってくれた。先ほどの賛美歌にも歌われていた通りです。

この人を見よ/大工の家に/人となりて/貧しき憂い/生くる悩み/つぶさになめし/この人を見よ・・・この人こそ/人となりたる/活ける神なれ

 人となったイエスは荒野で私たちと同じように空腹を覚え、人となったイエスは嵐の海で眠気をおぼえて居眠りをし、人となったイエスは愛する友ラザロの死を見て涙を流しました。このイエスに出会ったとき、人びとは神が人となったと信じました。時に呪いの言葉を浴びせられていた人たちがそう確信しました。あなたの罪のせいであなたは病気になった、あなたは汚れた存在だから近づいてはいけない罪人だから一緒に食事はできない、そんな呪い言葉、偽りの霊ばかり浴びせられていた人たちが、イエス様が手を触れて癒し、食卓を一緒に囲んでくれ、あなたを罪に定めないと語られ、友と呼んでもらえた。そのとき、「ああ、神が人となってやって来てくれた」と信じたのです。神が人となる、イエスが肉体をもって人間となった、人間の人生の痛みを知っている神が私たちと共にいる。肉体に価値がない、人生に価値がないのではない、この貧しさ、悲しみだけが人生なのではない。この肉体、人生を通してこそ、人となった神、イエスに出会い、神の思いを知ることができる、神と共に生きることができる。ヨハネの教会とって、神が人ととなったこと、それは不安や怯えではなく、希望そのものでした。

イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。ヨハネの手紙一4:2

 偽りの霊、呪いの言葉、私たちを不安にさえ脅えさせる時代の風、それらに囲まれつつも、私たちは真理の霊を聞き分けることができます。人となって、私たちに救いの道を示したイエス・キリストから出るものを知っています。脅えをもって聞き、人を怯えさせるように語るのではなく、希望をもって聞き、希望を抱かせるように語る、心燃やされる、そんな言葉と証しを紡ぐ歩みとなりますように。


# by nazarene100 | 2021-11-07 10:30 | 礼拝説教