教会からのお知らせ

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礼拝・定期集会案内
主日礼拝  毎週日曜日 10:30〜11:45 夕礼拝19
:00〜19:40(小礼拝堂)
讃美歌を歌い、聖書のお話を聞き、お祈りをします。
心も体も重荷を下ろして神様から安心をいただく時間です。
初めての方もお気軽にご参加ください。


聖書に親しむ会&祈り会  毎週水曜日 10:00〜11:00
普段の礼拝出は読まないような聖書の物語や
一人で読んでいてもわかりにくい聖書の箇所を
みんなで読んで感想を語り合ったり、祈る会です。

<教会にお越しになる方へ>
 *礼拝に必要なもの(聖書や賛美歌集)は受付でお貸しします。
  クリスチャンでない方も自由に参加できます。
  礼拝の中に奉献(献金)がありますが、
  する・しない、金額も、自由なものです。
 *その他、事前に知りたいことがあれば、
  気軽にメール・電話にてお尋ねください。
 *駐車スペースは普通車15台分ほどあります。

 ・東京・外房線・内房線方面 から来会される方は
  JR千葉駅 7〜10番ホーム(成田線・総武本線)より、
  普通あるいは快速電車を利用し、四街道駅下車、徒歩15分。

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・四街道駅より千葉内陸バス千葉行きに乗車し、

 山王越(さんのうごえ)下車、徒歩約6分。

 または、草野車庫行に乗車し、八幡神社前下車、徒歩約5分。

・JR千葉駅から千葉内陸バスを利用する場合は、

 バスターミナル 15 から四街道駅行き に乗車し、山王越下車、徒歩 約6分。

★バス停からの道のり

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教会施設の利用に関して

現在、学園教会では地域の諸団体に教会施設をご利用いただいています。

礼拝堂での合唱団やピアノ教室の発表会で利用されたり、
集会所にて、ヨガ教室、体操教室など、
イベント・スペースや会議室としてなど様々な用途でご利用いただけます。
教会は営利団体でないので、施設利用料は一切いただいていませんが、
施設維持のために自由意志の献金をおねがいすることもあります。

練習場所や発表会場をお探しの皆様はぜひいつでも
学園教会の礼拝堂・チャぺルや集会所にご見学にお越しください。

連絡先 naz100th@yahoo.co.jp 043-424-0831


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# by nazarene100 | 2019-12-25 00:00 | Trackback

パイプオルガンの設置作業開始

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ガルニエ社製パイプオルガンの学園教会礼拝堂への設置工事が開始されました。ガルニエ社のスッタフにより6月18日より資材の搬入、組み立て作業が進められ、現在、整音作業が始まっています。



◇礼拝堂に搬入された資材の一部

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◇オルガンケースの組み立て
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◇オルガンケースの設置
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◇パイプの設置
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# by nazarene100 | 2018-07-04 15:36 | パイプオルガン | Trackback

誰でも、行って、いいんだよ

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誰でも、行って、いいんだよ

「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイによる福音書 11章28節

ロシアに滞在していた時、現地の友人に連れられて、
ロシア正教会の礼拝に出席しました。
一歩足を踏み入れ、美しく広がる大聖堂の内部に圧倒されている私を尻目に、
友人はさっさと前方の祭壇に進んで行き、蝋燭に火を灯して、祈りを捧げています。
一人取り残されてしまった私。当時クリスチャンでなかったので、
どう振舞ってよいのかも分からず、聖堂の後ろで友人の帰りを待つことにしました。
すると、いつから私のことを眺めていたのでしょうか、
一人のお婆さんが話しかけてきました。
なかなかロシア語が上達しなかった私にも良く分かる、ゆっくりとした口調ではっきりと。
しわだらけの飛び切りの笑顔で。「誰でも、行って、いいんだよ。」

それから数年後の日本で、大きな悩みを抱えていた私は教会の扉を叩こうとしていました。
ところが教会の回りを行ったり来たり・・・。
だって中の様子が見えず、牧師がどんな人なのかも分からないのに、
教会に入っていく勇気はとても湧きません。
道行く人の目も気になって、玄関の前に立つことすら、なかなか出来ません。
そんな小心者の私の心に甦ってきたのは、あの日のお婆さんの声です。
「誰でも、行って、いいんだよ。」

あの声を通してイエス・キリストが語ってくださったのだと信じています。
なぜならキリストはこう語ったからです、
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストはすべての人びとの身代わりとなって十字架に掛かって殺されました。
それはキリストを信じた弟子のためだけの、身代わりではありません。
キリストと敵対し、信じないで侮辱する人々をも愛して、
十字架の上で彼らを赦して死んでいったのです。
すべての人が神様に愛されていることを伝えるために。
このキリストの十字架の死によって、
神様はすべての人を赦し、救いを約束してくださいました。

ですから、どこかで十字架を見かけたら思い出してください。
これは今を生きる私たち、どんな人でも神様に愛され、
招かれている“しるし”だということを。
そして、あなたの心にいっぱい抱え込んだ重い荷物を、
神様のもとへと降ろしに来てください。
気休めなんかじゃない、心の奥底からの休息を味わうことが出来るでしょう。

え?自分なんかとても神様の前に立つにふさわしくないって?
そんなことないですよ。
「誰でも、行って、いいんだよ。」


ナザレン教団出版局「ふくいん」1月号より 
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# by nazarene100 | 2016-01-01 10:30 | ショートメッセージ | Trackback

お知らせ

■教会教育研修会のお知らせ 【終了しました】
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 3月11日の東日本大震災による傷跡は今もなお深く残り、復興の途上にあります。さらに、その悲しみと痛みに加え、福島第一原発事故で起きた放射能汚染による被害は深刻さを増し、私たちのコミュニティを引き裂いています。神の被造物である自然や環境、すべての生命をかけがえのないものとして保護していく責任を与えられている者として、原発の是非に関する問題は3・11以降を生きる私たちに避けて通れない事柄です。
2月11日は「信教の自由を守る日」であり、震災から11ヶ月の節目であります。これらの出来事を信仰を与えられ者としてどのように理解し、受け止めることができるのか。私たちに何ができ、また為すべきなのか。未来を生きていく子どもたちに何を伝えていくことができるのか。今一度、皆で考え、祈る機会を持ちたいと考えました。
 そこで長年、浜岡で原発問題と取り組み、被曝労働を問い続けてこられた内藤新吾牧師をお招きし、お話を伺う機会を作りました。是非、ご参加<ださい。

・日時 2012年2月11日(土)10:30~ 参加費1000円
・会場 日本ナザレン教団 学園教会
・講師 内藤新吾牧師(日本福音ルーテル稔台)

講師プロフィール
1961 年兵庫県生まれ。本年3月まで日本福音ルーテル掛川・菊川教会(静岡県)。現在、同稔台教会(千葉県松戸市)。「浜岡原発を考える静岡ネットワーク」役員。「原子力行政を問い直す宗教者の会」事務局。18年前、被曝労働を続ける野宿の日雇い労働者との出会いから原発問題に関わる。
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# by nazarene100 | 2012-02-11 10:00 | Trackback

神の思い、子知らず

「コラ! どこ見てんだ!」
その罵声で楽しい家族の時間が凍りつきました。
初詣の参拝客で込み合う中、
私の父にぶつかった若い男が言いがかりをつけてきたのです。
どう見ても私たち家族はまっすぐ歩いていたのですが。
男はそのまま捨て台詞を残して、人ごみの中へ消えていきました。
その間、一言も口を開かなかった父。
「お父さん、どうして怒らないの?
ボクらは悪くないのに、なぜ何も言ってくれないの?」
私は幼い心に抱いた不満と怒りを口に出せずに飲み込みました。

それから長い年月がたち私も親となった今、
あの日の父の思いが少しは分かる気がします。
もし、あそこで父まで怒っていれば、
楽しい家族の時間は完全に台無しになったことでしょう。
父にも言いたいことはあっただろうけど口に出さず、
家族のために屈辱に耐えたのだろうなあと父の思いに気づく時、
今さらながら親の愛がしみじみと染みわたってきます。

どうも私は子どものころから何も変わっていないようです。
昨年もいろいろなことが起こり、
その度に神様に愚痴りたくなる言葉を飲み込みました。
「なぜこんな悲しいことが起こるのか?
どうして神さまは何も言ってくれないのか?」
その間、一言も口を開かなかった神様。
しかしそこには、あの日の父のように神様の思いがありました。

天が地を高く超えているように
わたしの道は あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ書55章9節)

 年が改まっても相変わらずこの世界は
「神様は何をしているのか?」と
愚痴りたくなる悲劇や苦難があります。
そして人は目に見える現実だけで判断し、
「神などいない」とうそぶきます。
しかしそんな罵声を浴びながらも、
私たちのことを一番に思っていてくれる
まことの親である神からの愛はいつだって注がれています。
確かに神様の思いはなかなか分かりません。
しかし今は分からなくても、
振り返れば必ず見えてくる
神様の憐れみ深い思いに信頼しましょう。
いつの日か、その思いに気づき、
すべてが私のためだったと親の愛を
しみじみ味わえる日がきますから、きっと。
まことの親の手を離すことなく、
しっかりと握って歩いていく。
そんな一年にしてみませんか?
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# by nazarene100 | 2011-01-01 00:00 | ショートメッセージ | Trackback

新会堂ギャラリー

礼拝堂内部です。十字架の形にくりぬかれた壁から光が差し込み
聖書の御言葉が解き放たれるイメージで、中央には聖餐卓が置かれています。

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二階席からの光景です。
十字架を中心として、水面に波紋が広がるように、
会衆席が並べています。

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礼拝堂のいたるところに設置された照明の光の量を調整することで
さまざまな光の演出が可能になります。
写真は講壇の背面と講壇上の照明がほのかに光っている状態です。

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小礼拝堂です。夕礼拝はこの礼拝堂で行っています。
和の雰囲気が夜の静かな、小さな祈りの集まりに
ふさわしい場を作り出しています。
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# by nazarene100 | 2010-05-15 00:03 | Trackback

再会、そして再開 

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イエスは弟子たちに言われた。
「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
マルコによる福音書14章 27~28節


 大学に通うためアパートに引越したときのこと、ゴミ捨て場に聖書を見つけました。手に見ると「○○女子大入学記念」との文字が。卒業生が捨てていったのでしょう。
ただで手に入ることと、女子大という響きに惹かれて拾って帰った聖書は、
そのあとしばらく学校の授業で大活躍してくれました。
ところが、そのうちガールフレンドができると邪魔になりました。
「なんで女子大の聖書もっとんの?」と聞かれたらどうしよう。
拾ったと言うのも恥ずかしいし…。
そう悩んだ末、もとのゴミ捨て場に聖書を捨ててきました。


「あなたがたは皆わたしにつまずく。」

イエス・キリストは最後の晩餐の席で弟子たちに語った言葉です。
 聖書の時代から今日に到るまで誰もがキリストに従うことに失敗します。
神を信じることに挫折し、聖書を読むことにつまづいてしまうのです。
順風満帆な日は神に感謝しても、都合が悪く、耐え切れなくなれば、神に別れを告げていきます。
ガールフレンドの視線を気にして聖書を捨てた私なんかとは比べ物にならない
人生の困難や迫害の中で、神に別れを告げ、聖書を捨てざるをえないことがあります。
この挫折を経験しない人は一人もいません。
イエス自らがそれを予告しているのです。
みんな、わたしにつまずきます、と。


しかし同時にイエスは私たちと再び会うことを約束するのです。

「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

十字架で殺されるイエスを見捨てて逃げだした弟子たちは、
失意のうちに故郷ガリラヤへ帰っていき、そこで復活したイエスに出会います。
彼らを待っていたイエスの姿は
、挫折や別れ、つまずきが人生の終わりではないことを伝えるものでした。
この再会によって、挫折したはずの弟子たちが再び立ち上がっていくのです。

かつて聖書を捨ててしまった私にも再び聖書を手にし、
再会する日が用意されていました。
ガールフレンドに逃げられて人生のゴミ捨て場にいるような気分で腐っていた日々。
私を待っていたのは他でもない聖書だったのです。
この再会を通して私は知りました。

挫折の果てに神との再会があること、
この再会こそ人生を再開させてくれるのだ、と。
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# by nazarene100 | 2010-04-27 00:00 | ショートメッセージ | Trackback

わたしも痛い

彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ書 53章 5節



「痛いっ!」
ついにやってしまいました。妻の叫び声に振り返ると、
階段から転がり落ちた息子が、頭から血を流しています。
堰を切った様に泣き出す息子、夢中で駆け寄っていく妻、ただオロオロするだけの私・・・。
幸い、大事には到りませんでしたが、なんとも痛々しい出来事でした。
 あの時、「痛い」と叫んだ妻自身の体は実際には傷ついていません。
かといって嘘をついているわけでもありません。
あの瞬間、どんな母親も同じ叫び声を上げずにはいられないでしょう。
わが子の痛みを自分のものとして、母親も一緒に痛んでいるのです。
縫った傷跡を眺めて「私も痛い」と語る母の言葉にも嘘はないでしょう。

「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」
イザヤ書 53章 4節
聖書には、私たちと共に痛み、苦しむイエス・キリストの姿があります。
キリストは十字架の上で、私たちの身代わりに打ち砕かれ、傷つきました。
その打たれた傷によって、私たちは癒されたと聖書は教えます。
キリストは人の苦しみを見て、見過ごしたり、オロオロしたりしません。
天の高みから人を見下ろして、「痛いのかい、じゃあ治してあげようか」とも言いません。
わが子の痛みを自分のものとする親のように、私たちに駆け寄り、
私たちの痛みをご自分のものとしてくださるのです。
私も痛い、と語りかけてくるようなキリストの姿は、痛みや苦しみの中で
私たちが孤独ではないことを教えてくれます。
 
私はこれまで何度も、人生という階段から転がり落ちました。
心がポッキリ折れて、癒されるまで随分時間がかかりましたが、
そんな私の傍らに、いつも駆け寄ってくれるキリストがいました。
一緒に痛んでくださる方がいたからこそ、やがて立ち上がることができました。
人生、転ばないに超したことはありません。
でも転んでしまった時は、心行くまで思いっきり泣き叫んでください。
駆け寄ってくださる方と出会う、最大のチャンスなのですから。


久米淳嗣(学園教会)



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# by nazarene100 | 2009-11-01 11:11 | ショートメッセージ | Trackback

アイシテル

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アイシテル
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」
イザヤ書49章15節



色白の美少年(?)だった私は、学校でいじめに遭いました。「白くて気持ち悪い」と笑われるたびにクラスから消えてしまいたくなる思春期の日々。しかしそんな私の辛い思いなど、つゆ知らぬ母はいつも息子に言うのです。「あっちゃん(私のこと)の肌はきれいでうらやましいわ」。人の気も知らないで何を呑気なこと言っているんだと呆れて、私は母に反抗ばかりしていました、でも・・・。
 暗く辛い日々に、絶望して命を絶つことも、暴れて他人を傷つけることもなかったのは、母の言葉があったからなのだと思います。私のことを見捨てずに、「きれいだ」と言ってくれる声は、無意識のうちに私の心の支えとなっていました。たとえクラス全員が僕のことを笑っても、母だけは味方でいてくれる、と。

そんな少年が大人になり、聖書の言葉に出会いますが、甘ったるく感じただけでした。かつてクラスメイトに笑われた私が、神様を笑ったのです。「私の目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)愛している?神様は何を呑気なことを言っているんだと呆れて、聖書を本棚の奥へと押し込んでしまいました、でも・・・。
やがて試練に襲われて、絶望の中にあった私を救ってくれたのは、その愛でした。ご自分を十字架につけて殺そうとする人々を赦し、命を捨ててまでその人々を愛し通した、神の子キリストが気づかせてくれたのです。神様はこんな私の味方でいてくれる、と。

反抗期のわが子を愚かなまでに愛し続ける母親のように。いや、それ以上の愚かさと、大きな愛をもって、神様は私たちを愛してくださいます。たとえ、どれだけ私たちが周りから否定され、傷つけられても。たとえ、どれだけ私たちが神様に反抗し、その愛を嘲笑ったとしても。神様はすべての人に語りかけています。
「わたしは、あなたを忘れることはない」と。

ナザレン教団出版局「ふくいん」2009年6月号より 

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# by nazarene100 | 2009-05-25 10:30 | ショートメッセージ | Trackback

平和はどこから

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平和はどこから

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
マタイによる福音書5章9節


「誰でも良かった」――加害者の口から吐き捨てられるお決まりの言葉。残虐極まりない事件そのものは勿論のこと、この言葉とわがままな動機に怒りと恐怖を覚えます。「殺すなら誰でも良かった」とは、あまりに身勝手過ぎます。
悔しさと憎しみから、「許せない、犯人を殺してやりたい」と声を詰まらせる被害者の遺族の方々の姿。誰もが自然と同情し、共感するでしょう。そして気つけば、第三者の私たちまでもが声をそろえるのです、「殺してやりたい」と。
ああ、なんということでしょう!それまで穏やかに普通の暮らしをしていた人です。それが突然の悲劇によって、愛する人を失っただけでなく、殺意を抱く人間へと変えられてしまっています。のみならず直接関係のない第三者の私の心の奥にまで、殺意が芽生えているのです。この、人が本来持つべきではない願い、「殺したい」という願いの先に、希望と慰めを見出そうとしても、そこには救いはありません。果てしなく広がる深い闇へと、私たちは迷い込んでいくだけです。

「誰でも良かった」――この殺意は、なんと聖書にも描かれています。そんな理不尽な殺意を抱く大勢の人々によって、キリストは十字架につけられて、叫び声をあげます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。それは、まさに理由もなく命を奪われていった被害者の苦しみの声そのものです。しかし十字架の上でキリストは更に祈るのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
この祈りは、怒りと殺意、復讐と報復の連鎖という闇に覆われた現代世界にも向けられています。悲しみと悔しさに捕らわれて復讐を願う人びと。そうだ殺せ!と同調する暴力的な私たち。そんなすべての人に、キリストは今も赦しを告げます。世界を覆う闇を克服し、真の平和が訪れるには、この祈りによって私が赦され、生かされていることを知り、互いに赦し合うことが求められています。

暴力や争い、悪のない世界を願うとき、まず滅ぼさなければならないものは、一人ひとりの心の奥底に潜んでいる怒りや憎しみ、そして殺意です。この世界において、最も平和が失われている場所である私たちの心から、平和が実現するよう祈り求めていきましょう。
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# by nazarene100 | 2008-08-01 00:00 | ショートメッセージ | Trackback