教会からのお知らせ

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礼拝・定期集会案内
主日礼拝  毎週日曜日 10:30~11:45 夕礼拝19
:00~19:40(小礼拝堂)
讃美歌を歌い、聖書のお話を聞き、お祈りをします。
心も体も重荷を下ろして神様から安心をいただく時間です。
初めての方もお気軽にご参加ください。

夕礼拝  毎週日曜日 19:00~19:40くらい(小礼拝堂)
朝の聖書の話をもとに黙想し、讃美歌を歌い、祈るときです。
夕礼拝はお休みの日もあるので、事前にご連絡ください。

聖書に親しむ会&祈り会  毎週水曜日 10:00~11:00
普段の礼拝出は読まないような聖書の物語や
一人で読んでいてもわかりにくい聖書の箇所を
みんなで読んで感想を語り合ったり、祈る会です。

<教会にお越しになる方へ>
 *礼拝に必要なもの(聖書や賛美歌集)は受付でお貸しします。
  クリスチャンでない方も自由に参加できます。
  礼拝の中に奉献(献金)がありますが、
  する・しない、金額も、自由なものです。
 *その他、事前に知りたいことがあれば、
  気軽にメール・電話にてお尋ねください。
 *駐車スペースは普通車15台分ほどあります。


教会施設の利用に関して

現在、学園教会では地域の諸団体に教会施設をご利用いただいています。

礼拝堂での合唱団やピアノ教室の発表会で利用されたり、
集会所にて、ヨガ教室、体操教室など、
イベント・スペースや会議室としてなど様々な用途でご利用いただけます。
教会は営利団体でないので、施設利用料は一切いただいていませんが、
施設維持のために自由意志の献金をおねがいすることもあります。

練習場所や発表会場をお探しの皆様はぜひいつでも
学園教会の礼拝堂・チャぺルや集会所にご見学にお越しください。

連絡先 naz100th@yahoo.co.jp 043-424-0831


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# by nazarene100 | 2019-12-25 00:00 | Trackback

学園教会のパイプオルガン・プロジェクトについて

学園教会では、2009年よりパイプオルガン導入を計画してきました。
オルガン建造家であるマルク・ガルニエ氏に依頼し、
昨年2016年9月の、ガルニエ・ジャポン社と契約を済ませ、
現在、建設工事の始まりを待っているところです。

パイプオルガンには、既製品がありません。
一つ一つ設置場所に合わせて設計され建築さます。
学園教会にふさわしく、豊かな賛美が捧げられるオルガンの誕生を教会員一同楽しみにしています。
オルガンのスケッチとディスポジション(仕様)をアップしましたのでご覧下さい。
オルガン建築工事が始まりましたら、その様子などアップしていきます。

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- ディスポジション -

この大きさで基本的な会衆賛美の伴奏が可能です。ストップ数は少ないにもかかわらず、多くのオルガン作品を演奏することができます。もちろん楽器に合った相応しい曲を選ぶことが大切です。

- DISPOSITION -

Mit dieser Größe ist es möglich die Grundgemeindegesangsbegleitung zu dienen. Trotz die geringe Registerzahl wird es möglich sein viele Orgelliteratur zu Spielen. Allerdings ist es notwendig die angepaßten Werke auszuwählen.

2 ManualePedal

10 Register

Umfang Manuale C — f" (54 Töne)
• Umfang Pedal C — f (30 Töne)

Barock progressive Stimmung
• Pedalkoppel I / P
Lampe Notenpult und Fuss Fuss Stange

HAUPWERK
Prästant 6 - 8'
Gedackt 8' (C G Gemeinsam mit Prästant 8)
Octav 4' Superoctav 2'
Mixtur 1 1/2!

KLEINWERK
• Spitzpfeife 8'
Kleinflöte 4'
Quintlein 111/3

PEDAL
• Subbaß 16'
Baß 8' (Transmission vom Subbaß 16' + letzte Octave von 8')


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# by nazarene100 | 2018-11-20 12:00 | 教会紹介 | Trackback

不器用な歩みにこそ

ちょうどこの日、二人の弟子が、
エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。 (24:13-14)

「一切の出来事」
それはただ出来事を話し合ったのではなく、
悲しみも後悔も、心の嘆きのすべて、
皆の前では話せなかった心に抱えたすべてのことを、
二人きりになって初めて弟子たちは重い口を開き
ぽつりぽつりと水滴が落ちるように語りだす、
互いが自分のことを語り、互いが相手の言葉に耳を傾ける――
そんな不器用な歩みにイエスは付き合って、一緒に歩き始めます。
そのイエスに気づけなくても大丈夫。
これまで聞き流してていたイエスの言葉と思いはいつかきっと、
一人ひとりの人生の危機の中で甦ります。

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# by nazarene100 | 2018-04-08 10:30 | 礼拝説教 | Trackback

立ち上がれない場所でこそ

イエスは言われた。「恐れることはない。
行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。
そこでわたしに会うことになる。」
マタイによる福音書28章 10節

復活とは、
「再び、起こされること/立ち上がること」を意味する言葉です。
では、立ち上がれずにいるわたしは不信仰なのだろうか。

「ガリラヤ」――弟子たちとかつて過ごした懐かしい土地、
そのガリラヤで再び会おうというイエスは
十字架で人から捨てられる悲しみを知るイエス、
墓の中で立ち上がれずにいる痛みを知るイエス、
そこから起こされる喜びを知るイエスです。

起き上がれずにいるあなたの「ガリラヤ」、
そこもまたイエスと出会う場所となります。


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# by nazarene100 | 2018-04-01 10:30 | 礼拝説教 | Trackback

わたしの内なる二人

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

ルカによる福音書 23:39-41


十字架のイエスの両隣り。

同じように十字架に磔られた二人の犯罪人。

自分の苦しみしか見えない犯罪人と

イエスの苦しみにも目を向ける犯罪人。

この二人が私の内側に棲んでいる。


ある時には、人は自分の苦しみしか見えない。

でも、それは大切なことです。

あなたの苦しみは、あなたが一番気づいてあげられるのですから。

けれど、別の時には、もう一人の犯罪人があなたの中に現れてくる

イエス様の苦しみを見つめるあなたが。

そして、その時、気づくのだと思います。

私たちが自分の苦しみや弱さや心配しか見えなかったときも、

イエスが隣りで、一緒にその痛みを背負っていることに。


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# by nazarene100 | 2018-03-26 03:02 | 礼拝説教 | Trackback

悲しみに目を閉ざさず

「わたしは死ぬばかりに悲しい。」

 マタイによる福音書26:38


弱音を吐くイエス。

この苦しみから逃げたいと現実逃避の祈りを神にささげるイエス。

そんなイエスが弟子たちに訴えたこと。

それは「目を覚まして、一緒にいてほしい。」という願い。

それは単なる居眠り禁止というお咎めの言葉ではなく、

悲しみに目を閉ざすな、という切なる願いでした。

目を覚まして、自らの弱さを隠さずにむきあうこと。

イエスの悲しみに、世界の悲しみに、

あなたの悲しみに目を閉ざさないでいること。

ゲツセマネの園の祈りは、悲しみに向き合う祈りです。


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# by nazarene100 | 2018-03-18 18:00 | 礼拝説教 | Trackback

わたしも引き裂かれた

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
マタイによる福音書26章 26節


イエスはひとりぼっちです。
深い孤独の底でパンを引き裂くイエス。
彼だけが感じていました、これが最後の食事になると。
いつもの仲間といつもの食事、変わらぬ風景に
弟子たちは誰もこれが最後だとは思っていません。
これが最後だとわかっていたら・・・。
この先、彼らは取り返しのつかない後悔を抱くことになります。

いつ訪れると知らぬ「最後」に対して私たちは無力です。
しかし、そんな「最後」に、後悔と自責の念で引き裂かれるあなたに
イエスは遠く離れていません。
引き裂かれたパンとして、あなたのそばにいます。
“わたしもたった一人ぼっちで引き裂かれた” と。

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# by nazarene100 | 2018-03-12 10:53 | 礼拝説教 | Trackback

誰でも、行って、いいんだよ

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誰でも、行って、いいんだよ

「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイによる福音書 11章28節

ロシアに滞在していた時、現地の友人に連れられて、
ロシア正教会の礼拝に出席しました。
一歩足を踏み入れ、美しく広がる大聖堂の内部に圧倒されている私を尻目に、
友人はさっさと前方の祭壇に進んで行き、蝋燭に火を灯して、祈りを捧げています。
一人取り残されてしまった私。当時クリスチャンでなかったので、
どう振舞ってよいのかも分からず、聖堂の後ろで友人の帰りを待つことにしました。
すると、いつから私のことを眺めていたのでしょうか、
一人のお婆さんが話しかけてきました。
なかなかロシア語が上達しなかった私にも良く分かる、ゆっくりとした口調ではっきりと。
しわだらけの飛び切りの笑顔で。「誰でも、行って、いいんだよ。」

それから数年後の日本で、大きな悩みを抱えていた私は教会の扉を叩こうとしていました。
ところが教会の回りを行ったり来たり・・・。
だって中の様子が見えず、牧師がどんな人なのかも分からないのに、
教会に入っていく勇気はとても湧きません。
道行く人の目も気になって、玄関の前に立つことすら、なかなか出来ません。
そんな小心者の私の心に甦ってきたのは、あの日のお婆さんの声です。
「誰でも、行って、いいんだよ。」

あの声を通してイエス・キリストが語ってくださったのだと信じています。
なぜならキリストはこう語ったからです、
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストはすべての人びとの身代わりとなって十字架に掛かって殺されました。
それはキリストを信じた弟子のためだけの、身代わりではありません。
キリストと敵対し、信じないで侮辱する人々をも愛して、
十字架の上で彼らを赦して死んでいったのです。
すべての人が神様に愛されていることを伝えるために。
このキリストの十字架の死によって、
神様はすべての人を赦し、救いを約束してくださいました。

ですから、どこかで十字架を見かけたら思い出してください。
これは今を生きる私たち、どんな人でも神様に愛され、
招かれている“しるし”だということを。
そして、あなたの心にいっぱい抱え込んだ重い荷物を、
神様のもとへと降ろしに来てください。
気休めなんかじゃない、心の奥底からの休息を味わうことが出来るでしょう。

え?自分なんかとても神様の前に立つにふさわしくないって?
そんなことないですよ。
「誰でも、行って、いいんだよ。」


ナザレン教団出版局「ふくいん」1月号より 
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# by nazarene100 | 2016-01-01 10:30 | ショートメッセージ | Trackback

 礼拝説教<要旨>「人を汚すもの」 

2011年3月27日 礼拝説教<要旨>
マタイによる福音書15章1~20節
「人を汚すもの」 久米淳嗣牧師

 今、放射能汚染への恐れから、口に入れる食料品や飲料水へ神経を尖らせています。近くの花見川区の浄水場からも基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたと聞くと私たちは不安になるばかりです。そんな中でこのイエスの言葉はどう私たちの胸に響くでしょうか。想像してみてください。もし、イエスが福島県産のほうれん草と牛乳を手に持って、あるいはコップに摂取制限された水道水を入れて、この言葉を語ったとしたら。「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と。

 現在、日を追うごとに放射能による大気や土壌への汚染の深刻さが明らかにされています。できるだけ正しい情報を得て、特に次世代への健康被害が出ないよう冷静な対応を取りたいと思います。けれども、たとえ放射線を帯びた食物であっても、この私の存在そのものを汚すことはない。(あってはならないことですが)たとえ健康には障害が出たとしても、命そのものを汚すことはできない。むしろ人の存在を汚すとするならば、それは私たちの「口から出るもの」であるとイエスは言うのです。福島第一原発の事故で県外に避難した被災者が、福島から来たと言う理由で、旅館やホテルで宿泊を断られたという問題が起きていると報道されました。
 なんということでしょう。確かに放射能は恐ろしいものです。しかしそれ以上に恐ろしいのは私たち人間の心であり、口から出る言葉です。ある地域から来たという理由で、「この人はに汚染されている」と、拒否し、排除てしまう振る舞いや言葉こそが、相手の存在そのものを否定し、本当の意味で汚してしまうことのではないかと思います。その意味でも、このイエスの言葉は、恐れと不安で混乱している今こそ、私たちが耳を傾けるべきものではないでしょうか。

 マタイ15章では「手を洗うこと」について、イエスとファリサイ派の人々、律法学者たちとのやり取りが起こります。イエスと弟子たちは食事の前に手を洗いませんでした。
それは衛生的な問題というよりも、むしろ宗教的な問題であり、食前に手を洗うことは、汚れた人や物との関わりを断ち切ることをも意味しました。しかしイエスは、自分だけが手を洗うことで関係を断ち切ったりしません。
 むしろイエスは、社会から「汚れた者」と見なされた徴税人や遊女、罪人たちの友として生き、そして最後には呪われし死刑囚、罪びととして、十字架につけられました。あえて手を洗わない側、汚れているとされた側に立ったのです。

 この出来事の少し前、イエスは五千人を超える群集と野外で食事を分かち合いました。選ばれたものだけが参加できるヘロデ大王の宴会と違い、それは様々な人々に誰にでも開かれた食卓でした。社会から排除されのけものにされ、疲れ果てていた人々をイエスが誰彼となく招いていた野外での食事。それは、「汚れなどというレッテルは関係ない。神様はあなたのことをかけがえのない存在として、見守っておられる」という思いが伝わってくる、身も心も温まり、癒される食事だったでしょう。

 残念ながら、原発事故の影響により、「汚染」という言葉をたびたび見聞きする機会がこれから増えて来るのだと思います。汚染・けがれというレッテルが、ある地域に、またこの国に暮らす私たちの身に負わされることになるのかもしれません。しかし、そんな現実があるからこそ、イエスは、あの言葉を語ったのです。
 「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
誰と誰が触れ合っても、人が汚れることなどない。人を汚すものがあるとすれば、それは私たちから出るもの、誰かを排除しようとする言葉や振る舞いにほかならない、と。神は全ての命をかけがえのないものとして愛している。そう伝えてくれるイエスを救い主としてお迎えしたいと思います。

 そして、今後の復興や社会の行く末への不安がある中でもどうしたら悲しみの中にある、疲れ果てた人びとの心と体が癒されていくのか、私たちにすべきことは何かを神に問い、行動していきましょう。手を洗って、あなたと私は違うと関係を絶つのではなく、手を取り合い、共に生きる喜びへ導かれる者でありたいと祈ります。
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# by nazarene100 | 2011-03-27 10:30 | 礼拝説教 | Trackback

神の思い、子知らず

「コラ! どこ見てんだ!」
その罵声で楽しい家族の時間が凍りつきました。
初詣の参拝客で込み合う中、
私の父にぶつかった若い男が言いがかりをつけてきたのです。
どう見ても私たち家族はまっすぐ歩いていたのですが。
男はそのまま捨て台詞を残して、人ごみの中へ消えていきました。
その間、一言も口を開かなかった父。
「お父さん、どうして怒らないの?
ボクらは悪くないのに、なぜ何も言ってくれないの?」
私は幼い心に抱いた不満と怒りを口に出せずに飲み込みました。

それから長い年月がたち私も親となった今、
あの日の父の思いが少しは分かる気がします。
もし、あそこで父まで怒っていれば、
楽しい家族の時間は完全に台無しになったことでしょう。
父にも言いたいことはあっただろうけど口に出さず、
家族のために屈辱に耐えたのだろうなあと父の思いに気づく時、
今さらながら親の愛がしみじみと染みわたってきます。

どうも私は子どものころから何も変わっていないようです。
昨年もいろいろなことが起こり、
その度に神様に愚痴りたくなる言葉を飲み込みました。
「なぜこんな悲しいことが起こるのか?
どうして神さまは何も言ってくれないのか?」
その間、一言も口を開かなかった神様。
しかしそこには、あの日の父のように神様の思いがありました。

天が地を高く超えているように
わたしの道は あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ書55章9節)

 年が改まっても相変わらずこの世界は
「神様は何をしているのか?」と
愚痴りたくなる悲劇や苦難があります。
そして人は目に見える現実だけで判断し、
「神などいない」とうそぶきます。
しかしそんな罵声を浴びながらも、
私たちのことを一番に思っていてくれる
まことの親である神からの愛はいつだって注がれています。
確かに神様の思いはなかなか分かりません。
しかし今は分からなくても、
振り返れば必ず見えてくる
神様の憐れみ深い思いに信頼しましょう。
いつの日か、その思いに気づき、
すべてが私のためだったと親の愛を
しみじみ味わえる日がきますから、きっと。
まことの親の手を離すことなく、
しっかりと握って歩いていく。
そんな一年にしてみませんか?
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# by nazarene100 | 2011-01-01 00:00 | ショートメッセージ | Trackback