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聖書に親しむ会 5月27日

聖書に親しむ会 5月27日
11:00~11:30
聖書のお話を中継しています。

聖書:ヨナ書1:4-16
賛美:讃美歌519「わが君イエスよ」

# by nazarene100 | 2020-05-27 11:00 | 礼拝説教

2020年5月24日復活後第6主日礼拝式

★礼拝説教の音声中継を11時前後から行っています
*ライブ履歴から後日視聴することも可能です。
*説教本文は下記をご覧ください。

2020年5月24日復活後第6主日礼拝式次第

【神をたたえる】
前  奏
招きの詞 
賛  美  39「御声聞くとて」
罪の悔い改めの祈り
赦しの詞
賛  美  417「主の約束」
献  金
主の祈り

【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
旧約聖書  箴言1:10-19
福 音 書  マタイによる福音書6:13
礼拝説教  「わるいもの」

【聖徒の交わり】
賛  美  131「仰げや輝く」
感謝ととりなしの祈り
信仰告白  使徒信条
頌  栄  63「父 御子 御霊の」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~
2020年5月24日礼拝説教「わるいもの」
箴言1:10-19、マタイによる福音書6:13

主の祈りは、その名の通り、主イエスの祈りです。イエスが教えた祈り、イエスの祈っていた祈りという意味ですが、これは私たちのもともと持っている祈りとは違います。神が聖とされますように、神の国が来ますように。神こそが大切にされ、神の思いがこの地上で見えますようにという祈り。でも私の祈りは、私こそが大切にされ、私の思いがこの地上で実現しますようにと。そんな私の祈りとは異なるイエス・キリストの祈りです。でも主の祈りの最後の一文、これは心を込めて祈りやすいものではないでしょうか。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」イエスに祈りを習う前から持っている私たちの願いです。悪から救って、誘惑や試練、悪いものはいやです。神様どうか私や私の大切な人が無病息災でありますようにと願っています。
だからこの部分は心を込めやすいかもしれません。
 しかし、これは単に悪いこと起こりませんようにという祈りなのでしょうか。これを祈れば悪いこと、試みは降りかかってこないのでしょうか。
そういうおまじないのような祈りなのでしょうか。おそらくそうではないと思います。というのも、この主の祈りを教え、ご自身でも祈ったイエスを見ればわかります。この「試み」と訳されている言葉は日本語で誘惑や試練、テストなど広い意味がある言葉です。果たしてイエス・キリストは、この祈りの通り、試みに遭わなかったでしょうか。いえ、試みだらけだったことを私たちは知っています。まずイエスの宣教活動のはじめの初めに荒野にて悪魔からの誘惑に出遭いました。これさえ祈ればおまじないのように、試練が遠ざかるというものではないようです。そして生涯を通じてこの主の祈りを祈っていたはずのイエスですが、最後には受難という試練を引き受け、十字架へと付けられました。イエスでさえ、試みからも悪い者からも逃れられなかったのです。それでも、そのイエスが試みに遭わせないでくださいと祈れと言うのです。なぜでしょう。ご自分でさえ、試みに遭わないなんてことはなかったのに。

そんな風に私はつい、この試みという言葉に目を向けがちでした。しかし、同じくらい注目したいのが「遭わせないで」という言葉です。 これは「導く」とか「運ぶ」という言葉、イエスの前に病人を癒してもらおうと友人たちが運んできたときなどに使われている言葉です。試みの中へと導き入れないで、運び込まないでくださいという祈りです。確かに試みというのは、自分から選んだというよりも、不本意ながら引き摺り込まれてしまうもの、それが試練、誘惑です。こんなはずじゃなかったというところに気がつけば導き入れられてしまう体験。イエスの悪魔の誘惑も、「霊に導かれて」荒野に行かれたと描かれています。導かれてというと聞こえは良いけれど霊に引きずり込まれるような出来事だったでしょう。試みに遭わせないでいう日本語訳の遭遇という言葉がまさにしっくり来ます。そんなつもりじゃないのに引き摺り込まれ、運ばれ遭遇してしまうもの。十字架もそうです。イエスのせいではないのに、弟子たちの裏切りによって、民衆の無知によって、政治家の思惑によって、人間の罪によって、十字架という重い試練を背負わされました。
 さて、では主の祈りは効果はないのでしょうか。イエスでさえ、試練の中へと引きずり込まれてしまったのですから――イエスも私たちも、試みを、苦い杯をできることなら避けて通りたいと願う。それでも生きることはまるで試みそのもの、私の思いを超えて私たちを引き摺り込む――。しかし試練へと引き摺り込まれた、その場所で私たちは次のように祈ることができます。「悪より救いいだしたまえ」と。主の祈りを教えてくれた張本人が十字架で倒れて死に、葬られたけれども、神によって起こされ、その墓から出てきたように。その試練の先、迷い込んだ先、試みに倒れた先で悪に染まるのではなく、悪に負けるのではなく、そこから救い出されることをイエスの復活は約束しています。この救い出すという言葉も、そこから運び出す意味を持つ言葉です悪の手から引っ張り出してくださいしてくださいという祈りです。引きずり込まれたとしても、そこで終わりではなく、神が引き揚げてくれる、イエスと共にそこから抜け出す、共に抜け出そうというイエスの思いを感じます。誰でも試みはいやですし、そんな場所に引きずりこまないで願う、そんな人間の願いをイエスはよく知って、一緒に試みに遭わせないでと祈ってくれている。けれど、イエスはそれは避けられないことを自分でも知っています。試練に誘惑に引きずる込まれたことのあるものだけが知っている風景をイエスも知っているのです。だからこそ、その試練にあったところ、倒れたところから、どう立ち上がるか、そこから神に引っ張り出されていく、そんな生き方を教えているのではないでしょうか、イエスが死から起こされて、天に昇ったように倒れたところで絶望しないよう、救い出だし給えという祈りを私たちに与えました。

 それは単なる頭の中の試練や悪との葛藤ではないようです。 それが祈りの言葉づかいから伝わってきます。試みへと引きずり込まれて、躓き、誘惑に迷い込んだ、その場所から引っ張り出してくれという祈りの言葉です。心の中での葛藤だけでなく、長年歩んできた自分の人生が迷い込む場所、そしてその場所から引っ張りだして別の場所へと救い出されるそういう場所や移動をイメージさせる言葉遣いの祈りなのです。イエスは人間が試練の中で道をそれ、神から離れて、迷い込んでしまう姿に心を痛めその道から引き戻したい、救い出したい、戻ってきて欲しい、そう願い、そのためにイエスは生きた、命を燃やしたのだと思います。放蕩息子が父親から逃げ出して、どん底のところで悔い改めて、再び父のもとに戻っていったように。迷い込んだところで、悪に染まらず、もう一度あなたの新しい道を歩んでほしい。悪より、悪い者より救ってください、引っ張り出してくださいという祈りに込められた思いです。

でも悪、悪い者とは何なのでしょう。これもそれぞれの人生にいろいろな悪しき者と出会いはあるのだと思います、残念ながら。しかし悪い者というのは究極的には、私自身ではないかと思います。使徒パウロは言いました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と。パウロは自分がもう何者であるかわからない、善いことをしたいと思っているのに、かえって自分の憎む悪を行なってしまうことを嘆いています。キリストを信じてからも、善を行いたいのに、悪を行なってしまうわたしは惨めだと。こんな私を誰が救ってくれるだろうかとその胸の内を打ち明けた後で、しかしパウロは言うのです、突然。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します!と。救ってくれるのは、神、キリストだと。パウロにとって悪い者とは他ならぬパウロ自身だったでしょう。私にとって悪い者とは誰か、それは私です。周りに自分の苦手な本当に悪い人はいるかもしれませんが、それでも神様の前で私たちが一番よく知っている悪い者は私自身です。善く生きたいと願いながらも悪を行ってしまう私です。試みに引き摺り込まれてしまったその場所で、神様を信じてたって誘惑も試みもなくならないじゃんと神を信じることに疲れ、自分を信じることを諦めてしまう時、悪を行ってしまう自分を、自分の中の悪魔を、罪を私は知っています。 パウロもそんな自分の姿を惨めだと嘆きました。でもその私の中の悪、そんな惨めさの中で突然パウロはイエスを称え、神へと帰るのです。悪いものから救ってください、救い出してくれるのは父よ、天の神あなたですと。そうやって天の神、イエスが天の父ちゃんと呼んだ神へと私たちは帰っていきます。

「父よ」から始まる主の祈りは「悪い者」という言葉で終わるのですね、ギリシア語の原文を見ると「父よ」という言葉から始まって、最後、「救い出してください、悪から」と、なっています。父という言葉から始まって、悪という言葉で終わるのです。でもその悪が終わりではありません。悪を嘆いて終わらない。自分の悪を嘆くからこそ、主の祈りのはじめに戻るのです、イエスの父よ、私の神よと。試みも、悪も、それが終わりではなく、父よと再び呼びかけ、救いを求める始まりとなるのです。

主の祈りは私たちの歩みをイエスはよく知っていてくださるのだとつくづく感じます。神よと祈りつつ、迷い道を歩んでしまう、引きずりこまれる私、それは私の弱さ、私の責任、罪でもありましょう。しかしその迷い道を歩きながらも、戻るべき場所は天の父のもとだと主の祈りは教えます。試みへと引きずりこまれた場所が本来の私がいる場所ではない、私の中の悪魔がわたしの帰るところではない、悪が終わりではない天の神が帰りを待っている、という私たちの帰るべき場所を思い起こさせる祈り、繰り返し、始まりの父よという呼びかけに帰って来る、それが主の祈りです。それがイエスの思いです。私と一緒に父の元に帰ろう、私が共に歩むからというイエスの呼びかけです。

# by nazarene100 | 2020-05-24 10:30 | 礼拝説教

聖書に親しむ会 5月20日

聖書に親しむ会 5月20日
11:00~11:30
聖書のお話を中継しています。

聖書:ヨナ書1:1-3
賛美歌:新聖歌510(讃美歌320)「主よ御許に」

 本日からヨナ書を読んでいきます。ヨナ書は4章からなる短い書物です。一週間で一章読んでいくと四週間一ヶ月で読み終わりますが、もう少しだけ詳しく5、6回に分けて読んでいけたらと思います。本日はその導入のようなお話ができたらと思います。

 ヨナの物語はお話の筋書きがしっかりとしています。それもあって紙芝居や絵本などの題材としても親しまれてきた物語です。しかし、そこで語られるヨナという人物のイメージは、不信仰なヨナというものでした。どうして彼が不信仰と言われてしまうのか。その一つにはまず彼が神から語りかけられると、神の前から逃げ出してしまったということがあります。そして物語の最後では、神様がニネベの都を滅ぼすことを思い直して、滅ぼさないという結末が待っています。するとヨナは神に不満を呼べて、神に対して怒りを向ける、そこでこのヨナ書は終わっています。神から逃げて、神からの仕事を一応果たすのだけれど、神に対して怒る、そんなヨナはそのままでは信仰者の模範として相応しくないと受け取られがちだったのでしょう。ヨナのようにならないようにしましょう。でもこんなヨナさんにも神様は哀れみ深く手を差し伸べているのですと言割れるほどに、ヨナという人はどうも評判が良くないようです。預言者と言うのはエリヤにしろイザヤにしろ、神に従った立派な人という見方が多いかとも思うのですが、新聖歌の488番に「ヨナは預言者」という歌があります。賛美歌というか聖書の物語を歌にしような曲です。そこでは「ヨナは預言者、昔の預言者、神様から言われたことを、言われた通り伝える仕事、それが預言者、しっかり頼むよ」という一番でうたわれる。歌の通り預言者は神の言葉を言われた通り伝えた人です。それなのに「預言者、しっかり頼むよ」なんて歌われてしまう。この歌の2番以降でも弱虫預言者、おかしな預言者、出直し預言者と歌われ、最後にはしっかりやろうね、などと歌われてしまう始末です。いかにヨナは「しっかりしてない」預言者だというイメージを持たれていたかが良くわかる歌です。今回はその「しっかりしていない」ヨナのイメージを少し捉え直したいという思いももって、この書を読んでいきたいと思います。

 というのも果たして神の前から逃げること、そして神に怒りを向けることは果たして、弱虫なのか、おかしいのか、しっかりしていないことなのかと問い直したいのです。いつも喜んでいなさいと言う聖書の言葉があるくらいですから確かに怒りというのはないに起こしたことはないのかもしれません。
しかし上沼昌雄さんという方が書いた『怒って神に ヨナの怒りに触れて』という本があります。これはタイトルの通りヨナの怒りを取り扱ったものです。まさに不信仰とレッテル貼られてきたヨナの名誉回復するかのように、本気で神に怒りをぶつけたヨナの姿を掘り下げています。果たしてヨナの発した神への怒りというものは信仰者に相応しくないのだろうかという上沼さんの問いです。今回はこの上沼さんの本も手がかりにヨナ書を読んでいきたいと思います。そしてそれに加えて私の問いは、ヨナの姿から逃げるということ、諦めるということ、これもまた信仰者に相応しくないと考えられがちですが、果たしてそうなのだろうかということも考えてみたいと思います。このしっかりしていない預言者がしかし、聖書の預言書になぜか名を連ねています。そしてまた追々触れますが、イエス・キリストも「ヨナのしるし以外この時代に与えられていない」と言って、自身の運命をヨナの歩みと重ねているような発言をしています。どうやらイエスもヨナをただの不信仰、弱虫とは見ていないように思います。
 さて、本文を見ますとまず1節で「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」とあります。列王記にもその名があり、北王国のヤロブアム二世の頃、前々回のアモス書と同じ時代となりましょうか、その頃に2節「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」と神から語りかけられます。ニネベというのは今のイラク北部、この時代ではアッシリア帝国の首都です。聖書の神を信じる民から見れば外国、しかも歴史はこの後、ヨナのいる北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされるのです。聖書の他の箇所でも、この時代アッシリアの悪、暴力、略奪について記されていて、流血の町、遊女の町と批判されてます。それくらいイスラエルはアッシリアに悩まされていたわけです。彼らの悪が神様の耳にも届いたと言います。ヨナにしてみれば、悪を行うアッシリアが滅んでくれれば、我が国イスラエルも助かるわけですから、わざわざ敵のアッシリアを救うために呼びかける、そんな使命が神から与えられたのです。イスラエルのための神の預言者として生涯を捧げたつもりが、イスラエルの苦しめる敵国を救うためにニネベに行けと。この時の葛藤、苦悩は記されていません。敵国を救うために出かけるなんて家族や周りの人に知られたら何を言われるかわからないし、そもそも自分の使命はそんなものではないと多くの葛藤があったでしょう。でも聖書はヨナの苦悩については語らず、ヨナの一言も記さずに、ヨナが神の前から逃げたことを記します。3節「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」タルシシュというのは現代のスペインだと考えられています。世界の果てと考えられていた地です。文字通り世界の果てまで逃げようというのでしょうか。イスラエルから南へ降って、港町ヤッファに行き、そして船賃を払って船に乗り込みます。日本語訳ではわかりませんが、ヤッファへ降ったというのと同じ降るという言葉が船に乗る際にも使われています。ヨナは神様からにげて、港町へ下り、さらに船の中へと降りて行った。主からという言葉が二回降るという言葉が2回。物語は冒頭から神から逃げ、そしてヨナの降っていく人生、加工していく歩みから始まります。

「逃げる」、これはあまり良い意味はない言葉かもしれません。でも聖書は神様が苦難や誘惑から私たちが逃げる道を逃れ道を与えて下さると伝えています。それに聖書の登場人物はしばしば逃げます。ヤコブが兄弟から、モーセがファラオから逃げます。主イエスも洗礼者ヨハネが捕まったのを聞いたとき逃げたと福音書は記しています。逃げ道そのものは悪いものではありません。でもこれらはみな辛い境遇や危険から逃げたのですが、それと違うのはヨナだけは神から逃げようとしたということです。それゆえ、弱虫預言者、しっかりしろと歌われてしまう所以です。

 でも思うのです。神から逃げるということ。このことほど、神を意識した行動はあるだろうかと。世界の果てまで、スペインまでの船賃は相当な金額だったと思われます。故郷を捨て、家族を捨て、預言者としての仕事を捨て、大金を払ってまで逃げるという人生の賭けです。これを不信仰と呼べるでしょうか。私など聖書を読む前、教会に通う前、神など意識したことありませんでした。不信仰と言うより、未信仰、無信仰とでも言いましょうか。神から逃げるも何も神など考えたこともない。でもヨナは人生の全てを捨てるほどに神を意識し、その神から逃げようとする。本当に不信仰ならニネベに行けと言われても、ああそうでか、そんなこと信じませよと何食わぬ顔でいつもと変わらない日々を送っていればいいのです。神が呼びかけようと「そんなの気のせいでしょ、信じたい人だけ信じたらどうぞ」と。でもヨナは神の言葉を信じるからこそ、その言葉がとてつもない要求であること、敵を救うためにニネベに行けと言う言葉の重みに耐えかねて、逃げ出すのです。逃げるというのは、ひょっとしたら信じるのと同じくらい勇気が入ること、重い決断だと思います。キリシタンが踏み絵を踏んだとき、ローマ帝国に迫害されたキリスト教とがキリストを否定して、信仰を捨てたとき、それは平穏無事な日々に神様信じますと言うよりも遥かに大きな、そして痛みの伴う信仰的な決断ではないかと思います。神から逃げよう。この決断ほど神を意識している行動はあるでしょうか。逆説的に、神を深く信じているからこそ、逃げる、その神を否定せずにいられない場面があるのだと思います。

 先ほど、神から逃げようとしたのはヨナだけだと言いましたが、それは正確ではなくて詩篇には次のような告白があります。詩編139編7-8節「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」詩篇の詩人も神から離れよう、神の顔を避けて逃げようとしたのだと思います。そして逃げようとしたものだからこそ気づくことができる真理を発見します。逃げることは不可能だと言う真理をです。

 ヨナはこの後、海の中へ、魚の腹の中へ、ニネベの郊外、いろいろな場所へ身を移しますが、神から逃げることに成功しませんでした。「神から逃げられない」、言葉で言うのは簡単です。でもそれを事実として味わうことができるのは神から逃げようとしたことがある人だけです。ペトロ達イエスの弟子たちがイエスを捨てて逃げたからこそ再び出会うことになったイエスの思いを知ることになったように。神を疑い、神を否定し、神から逃げたことのある人だけが、どこまで行っても神は離れないと言うことがあるのだと思います。使徒パウロが語った、たとえ死をもってしても神の愛から私たちを話すものはないと言う確信もまたそうでしょう。その意味でヨナ書が描く神から逃げる人間の姿、神に怒りを向ける姿は単純に不信仰と言うより、信仰を持つからこその悩みです。信じるからこそ逃げる、疑う、怒ると言う、単純に信仰、不信仰と二つに分けることなどできない人間の抱える複雑な内面と、そこでこそ出会う神と言うものを私たちに教えてくれているのだと思います。

# by nazarene100 | 2020-05-20 11:00 | 礼拝説教

復活後第4主日 2020年5月17日礼拝式

★礼拝説教の音声中継を11時前後から行っています
*ライブ履歴から後日視聴することも可能です。
*説教本文は下記をご覧ください。

2020年5月17日復活後第5主日礼拝式次第

【神をたたえる】
前  奏
招きの詞 
賛  美  165「栄光イエスにあれ」
罪の悔い改めの祈り
赦しの詞
賛  美  283「主よ わがそばを」
献  金
主の祈り

【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
旧約聖書  創世記50:15-21 (旧約93頁)
福 音 書  マタイによる福音書6:12 (新約9頁)
礼拝説教  「おいめ」

【聖徒の交わり】
賛  美209「慈しみ深き」
感謝ととりなしの祈り
信仰告白 使徒信条
頌  栄  62「天つみ民も」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~~~
2020年5月17日礼拝説教「おいめ」
創世記50:15-21、マタイによる福音書6:12

自粛警察と言う言葉をニュースで目にします。この自粛期間に空いてるお店があると誰かが「店を閉めろ」と張り紙をする。公園で子どもたちが遊んでいると「どうして外に出してるんだ」と苦情が来る。そうやって他人が自粛生活しているかどうか取り締まるから、自粛警察と言うそうです。悪気はなくて、それだけ真剣に感染が広がるのを防ぎたいという思いからでしょう。けれど気分転換で少しだけ公園で遊んでいただけだったり、お店を開けないと潰れる、そんな相手の状況は無視されている感じがして、何ともつらいニュース、言葉です。でも気持ちはわからなくもないです。自分たちが我慢している一方で、「どうして外に出てるんだ」、「店を開けてるんだ」と腹を立てるのは自然なことかもしれません。人はかくも怒りを覚えやすいのだと改めて見せつけられている気がします。そういう私もニュースで行楽地に人が出ているのを見たりすると、腹立てたりします。「こっちはちゃんと家にいるのにどうして出かけるんだ」と、わたしは特に出かける用事もなかったくせに腹を立てる。相手にどんな事情があるのか見ないで、そして自分のことを棚に上げてるから、つい腹立たしく思えてしまいます。ですからイエスが教えた赦しということは、今日の糧、パンと同じなのだと思います。私たちの生活にとっても身近で、日々必要なこと、忘れてはならないこと、だからこの主の祈りでも赦しについて祈るように教えてくれているのだと思います。赦せないというのが私たちに人間の姿を見つめさせ、しかしそこに自分を棚に上げていないか、そもそも私は赦されているのかということを問いかけています。

でも思うんです、聖書の神様はしょっちゅう怒っているじゃないかと。「お前たちを赦さない」とまで神様が怒ってたりする。一度や二度じゃなく、怒りまくっている。一方でとても憐れみ深く、苦しんでいる人々を救い出し、その優しさを感じる場面もたくさんあります。他方で聖書の神は非常に激しく怒る神でもあります。それを見ると、じゃあ私が腹を立てるのも仕方がないかと開き直りってしまいそうになりますが、実際その通り、仕方がないと思います。というのも聖書では、人間は神のかたちに似せて創られたと言います、神の似姿だと。ということは、わたしたち人間も怒るのも、神に似た姿といえるのかも知れません。ですから怒りそのものが悪いのではない、そのことは憶えておきたいと思います。腹を立ててしまった、だから私はダメな人間だと思う必要はない。神様ですら怒るのだから。でも大切なことはどう怒るのか。どんなときに怒るのか。何について怒るのか。そして怒りを覚える私が、赦すこと、そしてそもそもこの自分が赦しを必要としていること。そのことが大切だと思います。怒る神、赦す神、そんな神の姿をイエス・キリストご自身がまざまざと見せてくれています。

そもそもイエス自身も怒ります。誰に対して怒るのかというと、自分は正しいと思っている人たちに対してです。ファリサイ派や律法学者、自分たちは宗教的に正しく歩んでいると胸を張っている人たち。他の人たちの宗教的に不十分なふるまいを自粛警察よろしく、批判していた人たち。そんな自分たちは正しいと考えていた人たちにイエスは怒りました。あなたたちこそ、一番罪深い、神から遠いと。反対に誰に対して優しいかというと、自分は正しくないと思っていた人たち。自分の過ちを痛いほどよく知っていた人たちです。イエスが出会った人たち、税金を取り立てて後ろ指さされていた徴税人、罪を犯したから病気になったと言われていた病人、神の教えに背くとされた遊女、彼ら彼女らは周りから罪びとと言われ、自分でもそう思い込まされて、神から遠いと思っていた。そんな人たちにイエスは優しいのです。どうして優しいかというと、自分でよくわかっているからです。こんな私は赦されるはずがないいつも心の中で「救われるはずがない」と自分を責めている、自分を赦せずにいる人たちにイエスは怒りを向けません。罪を犯してしまうのは、その人の心の弱さのせいか、育った環境のせいか、いろいろな原因がありそうですが、周囲から評価される生き方をすることができないで、いつも周りから罪びとだと指さされてしまう。だから「神様、こんなわたしを助けてください」と祈らずにはいられない。そういう人に、イエス・キリストはどこまでも寄り添うように、優しいのです。

だから今日の祈り、「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りは、正しく生きられない人間の弱さ、悲しさをよく知っているイエスの祈りです。天の神は、イエスが天のお父ちゃんと親しく呼ぶほどに近い天の神は、赦してくださいといのらずにいられない、あなたを救うと。もう自分の負い目を責めないで、自分で自分を赦せない毎日に苦しまないで、赦してくださいと天の神に祈ってよい、そんなあなたに神様は最も近くおられるのだと。その祈りを聞いてくださる神に出会ったのだから、あなたも腹を立てたままでいないで、赦しを祈りなさい。ここでも主の祈りは私たちをよく知るイエスの思いがこもっています。

後半の「人の負い目を赦します/ました」という祈り。これもつくづく難しいものだと私たちは知っています。礼拝の中でささげる主の祈りは文語訳で「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と私たちが他人がしてきた罪を赦しているという風に聞こえます。でも今日の聖書のように、イエスはまず私たち自身が赦されることを祈ります。赦してくださいと。そして神に赦された者として、世界を見る、人と出会い直す、そうして赦せないことから解放されていく、人を赦していくの流れです。今日の翻訳もどう訳すか、すごく難しいところで、「新共同訳聖書」は「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と過去形で、「私、人を赦しましたから、神様、私のことも赦してください」という意味にも取れます。確かに過去形で訳せる言葉ではあるのですが、時間として過去のことというより、その一回の行いを強調するような言葉なのです。だから新しい「新改訳2017」という聖書では「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と現在形で、これから赦す祈りになっています。赦すことは本当に難しいことだという私たちの思いをよく知ったイエスは、当たり前のようにもう赦したということを前提に、過去のこととして言っていないと思います。今、この祈りを口にして赦すこと、今日この日赦せるように、これからの人生で一度でも赦すことができるように、その赦すという一度の行為の重さがよくよく伝わってくるのは現在形だと思います。――「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」――何度も繰り返す、やり直しや再出発、日々の新しい決意としての祈りです。

問題は、そんな赦された存在であることをすぐ忘れてしまうことです。イエスの弟子のペトロなんかも、あるとき、「何回人を赦したらよいですか?7回までですか?」とイエスに質問しました。回数のことにペトロも私たちも目が行ってしまいますが、そもそも自分が相手を赦す正しい側に立っている時点で思い違いをしています。俺は相手を何回赦せばいいんだと自分を棚に上げて、腹を立てたまま何回赦そうかと考えている。でもそんなペトロもイエスの赦しに出会いました。それはイエスが捕まって裁判に連行されていったときです。ペトロは逃げてしまったけれど、でも後から、こっそりついて行って、大祭司の家で侮辱されているイエスをのぞき見しているのを人に見つかってしまいます。そのとき「お前もイエスの仲間が」と聞かれて「イエスなど知らない」と三度も否定する、その瞬間、鶏が鳴き出す。それらはどれもイエスが前もって言っていたことでした。捕まる前、たとえ死んでもあなたから離れないと豪語していたペトロです。自分の正しさを、強さを信じていたペトロに、イエスは鶏が鳴く前にあなたは私のことを三度知らないというであろうと語った。まったくその通りになりました。ペトロはイエスのその言葉を思い出して号泣するのです。自分のしてしまったこと、その罪深さを嘆いただけじゃありません。そんな自分の裏切り行為も、裏切ってしまう弱さも、イエスは全部知っていた。全部わかってたんだと、イエスの言葉を思い出して気づくのです。イエスはご自分を死へと追いやってしまう、そんなペトロの弱さ過ちも弱さも知っていた。知っていた上でイエスは受けとめてくれていた、それが、ペトロがイエスの赦しに出会った瞬間でした。

犯した罪は消えないし、無かったことはできない、人から受けた傷も消えない。でも私たちは赦された罪びととして、自分や世界と、出会う人々と新し生き直すことができる、このイエスの思いを乗せて、私たちは主の祈りを祈り続けます。

# by nazarene100 | 2020-05-18 10:30 | 礼拝説教

聖書に親しむ会 5月13日

聖書に親しむ会 5月13日
11:00~11:30
聖書のお話を中継しています。

聖書:ヨハネの黙示録6:1-8
賛美歌:新聖歌147(讃美歌174)「起きよ夜は明けぬ」

# by nazarene100 | 2020-05-13 11:00 | 礼拝説教

復活後第4主日 2020年5月10日礼拝式

★礼拝説教の音声中継を11時前後から行っています
*ライブ履歴から後日視聴することも可能です。
*説教本文は下記をご覧ください。

2020年5月10日復活後第4主日礼拝式次第

【神をたたえる】
前  奏
招きの詞 
賛  美  27「来る朝ごとに」
罪の悔い改めの祈り
赦しの詞
賛  美  275「信仰こそ」
献  金
主の祈り

【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
旧約聖書  イザヤ書55:10-11
福 音 書  マタイによる福音書6:11
礼拝説教  「まないた」

【聖徒の交わり】
賛  美  394「成し給え汝が旨」
感謝ととりなしの祈り
信仰告白  使徒信条
頌  栄  61「み恵み溢るる」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~
2020年5月10日礼拝説教「まないた」
イザヤ書55:10-11、マタイによる福音書6:11

私が洗礼を受けたとき、記念品としていただいたものは聖書...ではなく一冊の本でした。料理研究家の小林カツ代さんの書いた『光の中の食卓』というエッセイ集です。彼女の生活に根付いた信仰がよく表れている内容で、料理をする中で気づかされる神様の恵みが、レシピや聖句と共に記されています。そこにあるのは本当にありふれた日常の一コマ、台所の風景なんです。でも彼女は包丁を握って、まな板に向かうと神を感じることがあると言うのです。そこに神、いませりって。皆さんは台所で神を感じたことがありますか?私なんて料理してても味付けとか量とか、できあがりの時間のことばかり考えていて、そこに「神、いませり」なんて思ったこともありません。そんな言い方は彼女自身も少し大げさで気恥ずかしいけれどと前置きしながらも、いろいろな発見を綴っています。花の美しさに気づく人は多いと思いますが、野菜はどうでしょう。彼女、言うのです。ほうれん草だって、二枚と同じはないと。何百枚、何千枚、いや何億のほうれん草が集まっても、全部その形は違う。何十億という人間が一人一人違うように。一つ一つの素材に何の着色力もなしに自然の豊かな色が与えられていること。こんなこと誰ができるのだろうかと言うのです。人間が料理を作っているように見えて、その実、ほうれん草の葉っぱ一枚も人間には作りだすことができません。自然をつかさどる大いなる力によってしか作りだせない二枚とない葉っぱ、野菜の数々。そういうことは頭では一応わかっているつもりですけど、台所で、日々の生活の中でそれを感じられるかどうか。これは私たちの信仰においてものすごく大きなことだと思います。そんなこと考える余裕もないほど生活が大変な人、料理や食事に時間を取れないほど忙しい人はまた別の話です。でも私は三食食べて料理する時間もあります。そんな私が頭の中だけで聖書のお勉強をして、手に取った食材、口に運ぶ料理に何も感じないのであれば、その信仰は、その聖書の知識はいったい何のためだろうと反省をします。そしてカツ代さんは、心を込めて作ると言うのは食べる人に対してだけではなく、こんな素晴らしい賜物を与えてくださる神様に対してこそ、心をこめ、腕をふるい、おいしく作らなきゃとご自分に言い聞かせていました。料理って、食卓って、こんなにも信仰や聖書と繋がってるんだなと気づかせてくれます。先ほど読んだイザヤ書に基づく讃美歌にもありました。

われらたがやし、種まけど、雪霜送り、雨を注ぎ、日にて温め、風を送り、そだてたもうは ただ神なり(讃美歌422番)

台所でも食卓でも、そこで野菜や料理を見て、この食べ物がどこから来るのか。お日様の光、雨の水をもって育てたもうはただ神なり、です。もちろんお百姓さんや小売店の皆さんの働きがあってこそですが、いのちの源である神からくる、そこに神いませりということを食卓で気にかけない私、台所で考えたこともない私は、ぼーっと生きてるんだなあとつくづく思います。それは〇〇ちゃんではなく、イエスに叱れるような気がします。というのも、イエスは食べ物について祈るからです。

この主の祈り、イエスが弟子たちに教えた祈り、イエス自身が祈っていた祈り、この祈りの冒頭において、父ちゃんと神を親しく呼びかけました。その後、イエスは神のことを祈っています。「神様がかけがえのないものとして、ちゃんとみんなに大事にされますように」、「神様の思いがわたしたちのところで見えますように」と。主の祈りは、神についての祈りから始まっています。人間の願望とか欲求ではなく、神についての祈りです。そしてそれに続くのが、「我らの日用の糧を今日与え給え」という祈りです。今日の聖書では「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という言葉。ここから私たち人間にかかわる食べ物や罪や悪についての祈りが始まります。いわば人間に関する祈りです。だからよく、主の祈りの前半部分が神についての祈り、後半が人間についての祈り。そんな風に解説がなされることがあります。確かにその通りの構成ではあるのですが、決して別々の祈りではありません。最初に前半で枕詞のように神様をほめたたえておいて、その後から人間の願い事をつらつらと祈り始めているわけじゃありません。前半も後半もない、一つの祈りです。神様、あなたを大切にできますように、あなたの思いがこの地上で見えますように。この祈りが全体を貫いています。台所でほうれん草を手に取ったとき、献立や味付けや食べてくれた人のリアクションではなく、神ここにいませりと、手の中のほうれん草にあなたの思いを見ることができますように。日々の食卓であなたを大切にできますように、という祈りです。神のことと人のことを分けてしまうのではなく、御心の天になるごとく、地にも、台所にも、食卓にも御心がなりますように。あなたの思いに気づかせてください。ただ食べ物でおなかを満たすだけでなく、私たちの魂が神の思いによって満たされますように、という祈りです。イエスが神の国について祈ったすぐ後で今日の糧について祈ったのはそういうことです。神の国はどこか遠い理想郷を実現させるような社会革命によって始まるのではありません。目の前の食卓のご飯から始まるということ、始めなければならないということです。

思い起こせばいつだってイエスは私たちの目の前の生活の中にある神の思いを語りました。イエスは生活者、私たちと同じ生活の人でした。その言葉には生活の匂いが溢れています。「(神の国は)パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカ13:21)神の思いは、台所でこねられる小麦粉に混ぜられるパン種のようなものだという。これ、実際に見たことがないと出てこない言葉です。イエスは自分でパンを捏ねたこともあったのでしょう。「あなたがたは地の塩である」という言葉も、塩がどれだけ料理に欠かせないか知ってるからこそ、出てくる言葉です。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない。新しい着物に古い布をあてがってはならない。イエスは市場で雀がいくらで売られているか見て、ぶどう園で賃金を貰う人の姿を眺めていたことでしょう。だからいつも生活の話で神の国を語った。聞いている人がわかりやすいように生活の話を喩え話のネタに使ったわけじゃない。パン種が混ぜられて膨らんで美味しそうに焼き上がったパンを手に取って。「神ここにいませり」。新しいぶどう酒が入った新しい皮袋から注がれるワインを眺めて。「神ここにいませり」。だからこそイエスは私たちが日々の暮らしの中で、神の思いを見るために「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と祈るように教えます。この「糧」という言葉はパンを意味する言葉です。今日私たちに必要なパンを今日与えてください。わたし一人のパンじゃないし、今日だけじゃく将来の食いっぱぐれないたくさんのパンでもありません。今日、この日のパンを。私たち一人ひとりに。ここが肝心です。

今日のパンってなんでしょう。今日のパンは、どんなに同じ分量で同じ作り方で焼いても、どれも微妙に違う形です。昨日のパンとも明日のパンとも違う、一つとして同じパンはありません。今日という日も、一つとして同じ日はない。この世界にただ一つのパンが、二度とこない今日という日に与えられます。でも、それはパンだけの話ではないんです。ここがミソです。パンもほうれん草も神様からのプレゼントですよーと言うだけじゃない。と言うのも「わたしたち」にお与えくださいと祈るからです。「わたしたち」という言葉には自分一人がお腹いっぱいになればいいんじゃない、他の人たち、お腹を空かせた人たちのことを忘れてはいけない、そういう教えも込められているでしょう。それに加えて、その「私たちにお与えください」と祈る、「私たち」もまた一人ひとり、誰一人として同じ人間はいない。神はパンひとつ、ほうれん草ひとつを特別とするように、人間一人ひとりを大切にしているということです。神が、人間を神のかたちに似せて創ったと創世記は伝えています。それは神がただ一人、唯一の存在であられるように、人間一人ひとりも、同じ人はいないという意味でもあります。それを忘れるから経済か命か、どの命を優先するべきか、そんな話でいつも人間は過ちを犯します。
でもイエスは言いました。野の花を空の鳥を神は養っている。まして、あなたがたを養わないはずがあろうか、特別なものとしないことがあろうか、と。ですから、パンというのは私たちが神に祈る前から、神が私たちを思いやっていることのしるしです。私たち一人ひとりも、今日必要なこのパンと同じく、必要な存在、特別な存在だというしるしです。

小林カツ代さんは言います。「心を込めて料理するというのは食べてくれる人に対してだけじゃなく、神に対して心を込めて作るのです」と。イエスは更に言うでしょう。神が心を込めて、あなたを作っているのだと。あなたのパンをあなたの1日を。あなたに対して心を込めているのだと。だから祈りなさい、それに気づくために。今日の糧を私たちに与えたまえと。
この祈りは、神が込めた心に目を開くための祈りです。この神の思い、心を受けて、だから人を赦さなきゃいけない、この後続く、赦しや悪からの救いの祈りへと繋がっていくのです。そんな許しの道、悪を乗り越えていく道、その道を進むにはお腹が空いていては始まらないし、何より神の思いに気づかなくては始まりません。

私たちがイエス・キリストに倣って生きよう、愛を行おう、祈りの人になろう、罪を悔い改めて、新しく生き直そう、そんな信仰の道は案外、台所から、食卓から始まるのかもしれません。

# by nazarene100 | 2020-05-10 10:30 | 礼拝説教

聖書に親しむ会 5月6日

聖書に親しむ会 5月6日
11:00~11:30
聖書のお話を中継しています。

聖書:オバテヤ書
賛美歌:新聖歌147(讃美歌174)「起きよ夜は明けぬ」


# by nazarene100 | 2020-05-06 11:00

復活後第3主日

★礼拝説教の音声中継を11時前後から行っています
*ライブ履歴から後日視聴することも可能です。
*説教本文は下記をご覧ください。

復活後第3主日2020年5月3日礼拝式次第

【神をたたえる】
前  奏
招きの詞  コリントの信徒への手紙二1:4
賛  美  9「力の主を」
罪の悔い改めの祈り
赦しの詞
賛  美  172「望みも消え行くまでに」
献  金
主の祈り

【神の言葉】
み言葉を求めるいのり
旧約聖書  イザヤ書43:1-7 
福 音 書  マタイによる福音書6:9-10 
礼拝説教  「なまえ」

【聖徒の交わり】
賛  美  268「御国の心地す」
感謝ととりなしの祈り
信仰告白  使徒信条
頌  栄  60「父 御子 御霊の」
派遣と祝福
後  奏
~~~~~~~~~~~~~~~~
202053日礼拝説教「なまえ」

イザヤ書43:1-7、マタイによる福音書6:-10

学生時代、ロシア、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に行きました。そこで足を止めて見入ったのがレンブラントの「放蕩息子の帰還」です。想像していたよりもずっと小振りのキャンバスがガラスで覆われていました。私が惹きつけられたのは弟息子を迎えて抱きしめる父親の姿です。弟息子はイエスの譬え話にある通り放蕩限りを尽くしてボロボロの格好です。まるで戦火を潜ってきたかのように頭髪もなくぼろ切れを纏った疲れた姿が印象的でした。そしてその息子を抱きしめる老人のような父もまた疲れた弱弱しい姿に見えました。息子の帰りを喜んで宴会を開くというこの後の展開とは裏腹にまるで息子の苦しみを父親も一緒に味わってきたかのように私の目には見えました。なぜだかわからないけれど疲れ果てた父のその姿に不思議と惹きつけられました。その疲れた姿は、神である父親は放蕩する私たち人間と共に苦しんでいたのか、そんなことを思いながら、その絵からしばらく離れることができませんでした。

しばらくしてヘンリ・ナウエンという司祭がこの絵画について記した文章に出会いました。彼の解説で私があの絵に惹きつけられた理由を教えられた気がします。ナウエンの指摘で初めて気づいたのですが、レンブラントの描く父親の左の手はごつごつしたたくましいものです。大きく広げられて左手は力が込められていて、背中と肩をしっかりと覆って、まるで息子をつかんで支えているかのような父の手です。一方で右の手は――聖書には神の右の手という表現がよく出てきますが――優しいのです。指は閉じられていて、やわらかく上品に息子の肩に置かれています。まるで息子を優しく撫でて慰め、癒しているようかのような母の手です。その二つの手は父なる神の二つの目だとナウエンは言います。父は支え、母は優しく撫でる。それが神の目、神の心であると。レンブラントの描く放蕩息子の父親の姿は、神の父親らしさ、母親らしさを表しています。私があの絵に惹きつけられた理由の正体は弱弱しさでも疲れ果てた姿でもなく、この右の手の表す優しさのせいだったのかもしれません。

そんな放蕩息子、その父親の譬え話を語ったイエスが祈りを弟子たちに教えます。その際にまず、神を父と呼ぶのです。「天におられる私たちの父よ」と。原文のギリシア語を見れば、「父よ、私たちの、天におられる」という並びで、真っ先に「父よ」と呼びかける祈りです。しかも主イエスは父という言葉を「アッバ」、子どもが父親を呼ぶときの言葉、父ちゃんという言葉で祈りました。主の祈りは、天の神を父ちゃんと呼んでいいんだよという当時では斬新な祈りでした。「父」と言っても神が男性であることを意味しません。神は天地のはじめに神の姿に似せて人を男と女につくりました。男性も女性も神に似た姿だということが分かります。レンブラントの絵にある通り、その神は父親らしさも母親らしさも持ち合わせています。実際、詩篇131篇では神様への信頼を「母の胸にいる幼子のように」と表現しています。またイザヤ書で神様が「母がその子を慰めるように、私はあなたを慰める」と語ります。イエス自身にも神を母親のように語ります。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか」と。ですから聖書においてもイエスにとっても、神様が男性とは考えられていません。それでも主の祈りは、はじめのはじめで、父ちゃんと呼ぶ、呼んで良いのだとイエスが言うのは、神の近さを伝えるためです。私たちの思いをはるかに超える天に神様はいるけれど、父ちゃんと呼ぶことができる神。父親と母親が、その手で支え、その手で慰め、我が子を抱きしめるように、一緒に苦しむように、神はあなたたちに近いと言うのです。人間の思いをはるかに遠く超えた天にいるけれど、父ちゃんと呼べるくらい、近い。父ちゃんと神の名を呼ぶことから始まる主の祈りはそんな神の近さに気づかせてくれます。

そしてイエスはその「み名が崇められますように」と祈ります。「み名」、神の名前が「崇められる」とはどういうことでしょう。新しく翻訳された聖書、新改訳2017と聖書協会共同訳、どちらともこの個所を「み名が聖とされますように」と原文に忠実に訳し直されました。神様の名前だからもともと聖なるものだと思ってますが、でもこの「聖」というのは「分けられてる、分離されている」という意味の言葉です。つまり他のものとは異なるということです。神様は、自分たちを幸せにしてくれそうな健康、金銭、地位、快楽という神、偶像とは違う。とりあえず気分を楽にして救ってくれるものだったら、何でも神としていいわけではない。イエスが父ちゃんと呼んだその神こそが、私たちにとってかけがえのない大事なものとされますようにという祈りです。裏を返せば、私たち人間は気が付けば神を遠くにおしのけ神ではないものを崇め、大事にしてしまうからでしょう。そんな私たちの性質に逆らうかのように「父ちゃん、あなたの名が大事にされますように」とまず祈るのだとイエスは教えるのです。美味しい食事も温かいお布団もわたしを支えてくれる、ついでに神様も支えてね、ではない。たくさんある選択肢、お助け道具の一つではありません。美味しいご飯もお布団もみな神から来る。すべてのいのちの源として、ごつごつした手で支え、柔らかい手で慰める、父と母である神は、一緒に苦しみながらも、私たちと共にある、そんな神の名前が、他のものと一緒にされないように、分けられ、聖とされ、大切にされますようにという祈りです。名前とは存在そのものです。神の名が、天の親の存在がみんなにとって大切なものとされますようにわたしたちがみんな、そう思えますように。それが「御名が聖とされますように」という言葉に込めたイエスの願いではないでしょうか。

しかし名前を大切にするのは、私たちだけがすることではありません。先に読みましたイザヤ書43章、イザヤはこんな神の言葉を聞き、伝えています。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ

ここでは反対に神様が、あなたの「名を呼ぶ」と言って、私たちの名を大切にしています。一人ひとりの「あなたの名を呼ぶ」と言うのです。一人ひとり、あなたの名前、存在、あなたらしさを大切にする。すなわち「あなたは、神にとってなくてはならない存在である」という神の宣言。それが「あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ」という神の語りかけです。

先ほどの「神様の名前が聖なるものとされますように」は、神の名前が他のどれとも違う。「かけがえのない大事なものとされますように」という祈りでした。しかし私たちがそう祈る前から、その神によって「あなたの名を呼ぶ」と言われたわたしたち人間一人ひとりが、大切な一人ひとりとされています。ですから、神の名が大切にされますようにと主イエスが祈るとき、神だけ大切にされてれば人間とか世界はどうでもいいことを意味しません。その神によって大切にされている私たちもまた分けられ、聖とされ、大事にされますように。そんなイエスの祈りの心があるのと思うのです。というのも続いて祈られる、「御心が行われますように、天においても、地においても」という言葉。それは神の御心、父ちゃん、母ちゃんの望むことが、私たちのところでも見えますように、という祈りです。

父ちゃんである神の望むことは何でしょうか、母ちゃんである神の望むことは何でしょうか。十字架ですべての人の罪を背負ったイエスにあらわされたのは共に苦しむ父ちゃん母ちゃんの思いです。レンブラントが描いた神の目、二つの手、十字架の思い、それが御心です。それは私たち一人ひとりのいのちを支え、慰め、名を呼び、存在を喜ぶこと。それが御心、神の思いです。そしてそんな御心が私たちの地上でも目に見えるようにすること。それがイエスの願いです。父の御心を人間の目に見えるようにとイエスはやってきました。イエスが人々を癒し、教え、十字架を背負い、罪の身代わりとなり、苦しみ、叫び、しかし三日目に死から起こされたこと、それはみな、神の思いがみえるようになるためです。苦難と共に神がいること、その苦しみから神が起こすこと、そして死を越えて神は私たちの名を呼ぶこと、それが言葉だけの教えではなく、本当に私たちの人生に起こるのだと、地上でイエスは見せてくれたのです。そのことを主の祈りを通して私たちは思いだすことができます。そんな神様の思い、一人ひとりが大切にされる神の国がこの地に広がっていくために私たちにできること。それはこの人生で神を遠くない、父ちゃん母ちゃんのような近い存在として呼びかけること。そのことから始まります、

「天にまします我らの父よ」と。


# by nazarene100 | 2020-05-03 10:30 | 礼拝説教

聖書に親しむ会 4月29日

聖書に親しむ会 4月29日
11:00~11:30
聖書のお話を中継しています。

聖書:アモス書9章
賛美歌:新聖歌477「原に若草が」

アモス書9

預言書アモス書を読んでいますが、この危機の時代に読むと本当に大切な警告を含んでいる書物だとつくづく驚きます。これは贅沢なイスラエルの一部の指導者が神様から起こられて、貧しく来る住む人を助け、新しく回復する。勧善懲悪のお話なんかではありません。もちろんアモスは貧しい人たちの苦しみを見て見ぬ振りする指導者たちを厳しく批判して、14節では彼らが滅びることを非常に厳しい言葉で断言しています。このままだと国は滅びるという神のメッセージを伝えています。でもこれ、実際に国は滅んでいくわけですがその危機の中で、どのように生き方を変えることができるか、世界を、生活を見る目を変えることができるのか、今の私たちに問われていることと通じていると思います。

 今、ウイルスに負けないように~しようと巷で呼びかけられています。でも、いったい何をもってウイルスに打ち勝った、負けないと言えるのでしょうか。収束したと言うのは感染の心配がなくなる、皆が抗体を持つ、免疫ができるということでしょう。でもそれまでにたくさんの犠牲者が出ている以上、勝ち負けで表現できるようなものではないと思います。死者数が多い少ないでこの国はこの地域は勝った負けたとは言えない。こういう危機の中でも芸術が生まれた、新たな交流が生まれたというのはウイルスに負けなかったという一つのしるしかと思います。でも何よりもウイルスに負けない、打ち勝ったと言えるしるしは、アモス書のような預言書を読むと明らかです。人間を切り捨てないか。恐れとか感情に惑わされて、魔女狩りをしない、犯人探しをしない、つるし上げをしない、弱い者を切り捨てない、それがこのあと一年後二年後に打ち勝ったと言えるかどうかのしるしだと思うのです。

武漢で都市封鎖された60日間に日々を日記に綴って公開した方方(Fang Fang:ファンファン)という作家がいます。最初は生々しい様子を描いていましたが、徐々に淡々と事実だけを書き記すようになります。国中で武漢がんばれキャンペーンが盛り上がる中で、素直に感じたことを記し、社会への思いを記していきます。そして方方はこのように指摘しています。

「一つの国が文明国家であるかどうか[の]基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」

これ―弱者に接する態度―は旧約聖書を貫く神の眼差しとも同じです。この危機の時代だからこそ、危機の皺寄せがくる人びとのためにどれほどの思いを馳せることができるでしょうか。旧約聖書では寄留者、寡婦、夫パートナーを失った女性、歳を重ねた高齢者、子どもたち、弱い存在を決してないがしろにしてはならない、彼ら彼女らをもてなすこと、生活を支えることを神は命じています。今このとき、苦しんでいる人の嘆き叫びを聞きます。

実際いまも外国人というだけで支援が受けられなかったり、税金を納めている外国人には給付金を出すな、生活保護を受けている人に出すな、仕事を続けなくては生きていけない人にどうして仕事してるのか営業しているのか、酷い言葉が浴びせられ、感染した人やその家族、或いは病院関係者が差別される。そんな風にして大饗ひとを切り捨てて、感染が収まったとしても、それはウイルスに打ち勝ったと言えるでしょうか。無理やり人権を奪って、人間の権利を制限して、ウイルスを制圧しましたと奢る国は本当にウイルスに勝ったのでしょうか。そこで弱い人々が犠牲となり、余裕のあるお金持ちだけが自分は大丈夫だったと胸をなでおろしているのなら、それは完全に負けではないでしょうか。

9節に「わが民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。彼らは、災いは我々に及ばず/近づくこともない、と言っている。」とあります。自分に災いが及ばなければそれでいい(10節)、あいつらは切り捨てられても仕方ない、そう言って弱者が切り捨てられるのは仕方がないとするならば、それは負けです。でもそうした弱い者を切り捨て制圧する社会は剣で神によって滅ぼされる、そうして残りの者たちがもう一度、復興する、神様によって回復させられると言います。

11節からその回復の預言が記されています。「昔の日のように立て直す」と。豊かな土地で再び収穫を楽しむ様子が描かれています。本当に早くかつての日常を取り戻したいというのが今の私たちの願いではありますけど、ここでアモスが言っているのは単に滅んだ後ももう一度日常を取り戻せますよという話ではありません。みんな自分でぶどう畑を作って、自分でぶどう酒を飲むんです。こき使われて必死に働く人と、その収穫を分捕って、搾取して豊かに暮らす人がいる格差社会じゃありません。みんな自分でぶどう畑を作り、自分でその実りを楽しむ。神様の恵みが等しくすべての人にやってくるということ。出エジプトの物語でエジプト脱出がすべての民、貧しい人も子供も老人も壮年も女性も寄留者も家畜も皆等しく荒野を旅をし、約束の土地へ招かれたように。正しい社会を回復する幻、約束です。国が滅ぶという危機を経て、イスラエルはその中で悔い改め、神に立ち返り、生き方を変えていきます。

いま出エジプトのことを話しましたが、老人とか赤ん坊とか家畜とか、国外脱出の旅を急ぐには早く歩けない移動できない人たちもたくさんいるわけですね。屈強な壮年男子女子だけで走ってエジプトを脱出したわけじゃありません。早く歩けない人、弱い人もみんなまとめてエジプトを脱出するという神の救いを体験しました。そのことを思う時、いまこうしてインターネット礼拝説教とか放送してますが、クリスチャンの中にはネットを使わない方、そういう環境にない人がある程度います。携帯電話すら持っていない人もいる。そういう中でコロナの危機を乗り越えるためにインターネット礼拝に切り替えましょうといっても、切り捨てられてしまう人、ネットができない人がたくさんいるわけです。それはあらゆるヘブライ人がエジプトから救い出された神の救いの出来事とちょっと違ってきてしまいます。アモス書を読んでいて、これを裕福なお金持ちが、指導者たちが、貧しい人たちを苦しませていること、弱い人を切り捨てていることを叱られている話としてだけ読んでしまいますと、自分は金持ちじゃないしと思ってしまいます。でも、いま誰か切り捨てられていないか。そういう目で見ると、ネット配信、インターネット礼拝をするとき、どうしても置いてきぼりにされてしまう人、そういう無力さにある人を教会は本来一番大切にしなければならないわけです。ネットできない人は自分でパソコン買ってくださいねというのでは、アモスに厳しく断罪される存在に他ならないと思います。いまやスマホ・パソコンは当たり前、教会はホームページがあるのが常識みたいなように思っていましたけど、この危機の中で、ネットから情報を得られない人は本当にたくさんいるのだということをつくづく思い知っています。ですから教会はお電話とかお手紙とかでいろいろな仕方で家に居ながら連絡を取り合って、ネットに繋がれない、ネットの壁で置き去りにされてしまう人がないように心を配る必要がある、それがだれも切り捨てられない、みんながぶどう畑の実りを楽しむ姿ではないかと思います。

今回の出来事は私たちがこれまで生き方を見直す機会として与えられています。生き方、環境、政治・・・そういったものを世界的に見直す、そんなとき。礼拝の守り方、兄弟姉妹との交わり方、それを改めて見つめ直し、神様が私たちに与えた本来の姿に立ち返るとき、それがどんなものなのか考え、生き直す機会が与えられたのだと思います。弱い人、苦しんでいる人とともに喜び共に悲しみ、共感できているのか、そうして新しい世界の見方、生き方の見つめ直し、生き直すことができるのならば、打ち克ったと言える日が来るのだと思います。


# by nazarene100 | 2020-04-29 11:00 | 礼拝説教

教会からのお知らせ

礼拝のご案内
教会からのお知らせ_d0110057_14345266.jpg
*主日礼拝は毎週行っていますが、
 出席に不安をおぼえる方や基礎疾患をお持ちの方は
 ご自宅で礼拝をささげてください。
 礼拝出席者には来会前の体温測定、マスクの着用、
 2メートル程の間隔を空けて着席をお願いしています。
 
 疫学的知見に基づいた良識に従って、
 感染予防に十分留意し互いを守りつつ、
 自らと隣人の不安や悲しみ、怒りを受けとめ
 信仰生活を続けていきましょう。
 医療従事者をはじめとする多くの関係者の努力で
 壊滅的な感染拡大を防ぐことができている状況です。
 そうした事実を無視した相互不信や
 互いを疑って監視することによって、
 弱者へ不安や怒りの捌け口が向かうことがない
 社会を建設するために祈ります。

 この事態に長く向き合うことになるので
 現実的に継続可能な予防を行い、
 対策と生活のバランスを取っていきましょう。

日曜、水曜共に11時頃から説教・聖書のお話の中継を
 以下のサイトで行っています後日録音を聴くことも可能です

礼拝・定期集会案内
主日礼拝  
毎週日曜日 10:30〜11:45
讃美歌を歌い、聖書のお話を聞き、お祈りをします。
心も体も重荷を下ろして神様から安心をいただく時間です。
初めての方もお気軽にご参加ください。

聖書に親しむ会&祈り会  毎週水曜日 10:00〜11:00
普段の礼拝出は読まないような聖書の物語や
一人で読んでいてもわかりにくい聖書の箇所を
みんなで読んで感想を語り合ったり、共に祈る会です。

<教会にお越しになる方へ>
 *礼拝に必要なもの(聖書や賛美歌集)は受付でお貸しします。
  クリスチャンでない方も自由に参加できます。
  礼拝の中に奉献(献金)がありますが、
  する・しない、金額も自由なものです。
 *その他、事前に知りたいことがあれば、
  気軽にメール・電話にてお尋ねください。
 *駐車スペースは普通車15台分ほどあります。

 ・東京・外房線・内房線方面 から来会される方はJR千葉駅 7〜10番ホーム(成田線・総武本線)より、
  普通あるいは快速電車を利用し、四街道駅下車、徒歩15分。

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・四街道駅より千葉内陸バス千葉行きに乗車し、山王越(さんのうごえ)下車、徒歩約6分。または、草野車庫行に乗車し、八幡神社前下車、徒歩約5分。

・JR千葉駅から千葉内陸バスを利用する場合は、バスターミナル 15 から四街道駅行き に乗車し、山王越下車、徒歩 約6分。


★バス停からの道のり

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# by nazarene100 | 2020-04-27 10:00