カテゴリ:ショートメッセージ( 5 )

誰でも、行って、いいんだよ

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誰でも、行って、いいんだよ

「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイによる福音書 11章28節

ロシアに滞在していた時、現地の友人に連れられて、
ロシア正教会の礼拝に出席しました。
一歩足を踏み入れ、美しく広がる大聖堂の内部に圧倒されている私を尻目に、
友人はさっさと前方の祭壇に進んで行き、蝋燭に火を灯して、祈りを捧げています。
一人取り残されてしまった私。当時クリスチャンでなかったので、
どう振舞ってよいのかも分からず、聖堂の後ろで友人の帰りを待つことにしました。
すると、いつから私のことを眺めていたのでしょうか、
一人のお婆さんが話しかけてきました。
なかなかロシア語が上達しなかった私にも良く分かる、ゆっくりとした口調ではっきりと。
しわだらけの飛び切りの笑顔で。「誰でも、行って、いいんだよ。」

それから数年後の日本で、大きな悩みを抱えていた私は教会の扉を叩こうとしていました。
ところが教会の回りを行ったり来たり・・・。
だって中の様子が見えず、牧師がどんな人なのかも分からないのに、
教会に入っていく勇気はとても湧きません。
道行く人の目も気になって、玄関の前に立つことすら、なかなか出来ません。
そんな小心者の私の心に甦ってきたのは、あの日のお婆さんの声です。
「誰でも、行って、いいんだよ。」

あの声を通してイエス・キリストが語ってくださったのだと信じています。
なぜならキリストはこう語ったからです、
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストはすべての人びとの身代わりとなって十字架に掛かって殺されました。
それはキリストを信じた弟子のためだけの、身代わりではありません。
キリストと敵対し、信じないで侮辱する人々をも愛して、
十字架の上で彼らを赦して死んでいったのです。
すべての人が神様に愛されていることを伝えるために。
このキリストの十字架の死によって、
神様はすべての人を赦し、救いを約束してくださいました。

ですから、どこかで十字架を見かけたら思い出してください。
これは今を生きる私たち、どんな人でも神様に愛され、
招かれている“しるし”だということを。
そして、あなたの心にいっぱい抱え込んだ重い荷物を、
神様のもとへと降ろしに来てください。
気休めなんかじゃない、心の奥底からの休息を味わうことが出来るでしょう。

え?自分なんかとても神様の前に立つにふさわしくないって?
そんなことないですよ。
「誰でも、行って、いいんだよ。」


ナザレン教団出版局「ふくいん」1月号より 
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by nazarene100 | 2016-01-01 10:30 | ショートメッセージ | Trackback

神の思い、子知らず

「コラ! どこ見てんだ!」
その罵声で楽しい家族の時間が凍りつきました。
初詣の参拝客で込み合う中、
私の父にぶつかった若い男が言いがかりをつけてきたのです。
どう見ても私たち家族はまっすぐ歩いていたのですが。
男はそのまま捨て台詞を残して、人ごみの中へ消えていきました。
その間、一言も口を開かなかった父。
「お父さん、どうして怒らないの?
ボクらは悪くないのに、なぜ何も言ってくれないの?」
私は幼い心に抱いた不満と怒りを口に出せずに飲み込みました。

それから長い年月がたち私も親となった今、
あの日の父の思いが少しは分かる気がします。
もし、あそこで父まで怒っていれば、
楽しい家族の時間は完全に台無しになったことでしょう。
父にも言いたいことはあっただろうけど口に出さず、
家族のために屈辱に耐えたのだろうなあと父の思いに気づく時、
今さらながら親の愛がしみじみと染みわたってきます。

どうも私は子どものころから何も変わっていないようです。
昨年もいろいろなことが起こり、
その度に神様に愚痴りたくなる言葉を飲み込みました。
「なぜこんな悲しいことが起こるのか?
どうして神さまは何も言ってくれないのか?」
その間、一言も口を開かなかった神様。
しかしそこには、あの日の父のように神様の思いがありました。

天が地を高く超えているように
わたしの道は あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ書55章9節)

 年が改まっても相変わらずこの世界は
「神様は何をしているのか?」と
愚痴りたくなる悲劇や苦難があります。
そして人は目に見える現実だけで判断し、
「神などいない」とうそぶきます。
しかしそんな罵声を浴びながらも、
私たちのことを一番に思っていてくれる
まことの親である神からの愛はいつだって注がれています。
確かに神様の思いはなかなか分かりません。
しかし今は分からなくても、
振り返れば必ず見えてくる
神様の憐れみ深い思いに信頼しましょう。
いつの日か、その思いに気づき、
すべてが私のためだったと親の愛を
しみじみ味わえる日がきますから、きっと。
まことの親の手を離すことなく、
しっかりと握って歩いていく。
そんな一年にしてみませんか?
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by nazarene100 | 2011-01-01 00:00 | ショートメッセージ | Trackback

再会、そして再開 

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イエスは弟子たちに言われた。
「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
マルコによる福音書14章 27~28節


 大学に通うためアパートに引越したときのこと、ゴミ捨て場に聖書を見つけました。手に見ると「○○女子大入学記念」との文字が。卒業生が捨てていったのでしょう。
ただで手に入ることと、女子大という響きに惹かれて拾って帰った聖書は、
そのあとしばらく学校の授業で大活躍してくれました。
ところが、そのうちガールフレンドができると邪魔になりました。
「なんで女子大の聖書もっとんの?」と聞かれたらどうしよう。
拾ったと言うのも恥ずかしいし…。
そう悩んだ末、もとのゴミ捨て場に聖書を捨ててきました。


「あなたがたは皆わたしにつまずく。」

イエス・キリストは最後の晩餐の席で弟子たちに語った言葉です。
 聖書の時代から今日に到るまで誰もがキリストに従うことに失敗します。
神を信じることに挫折し、聖書を読むことにつまづいてしまうのです。
順風満帆な日は神に感謝しても、都合が悪く、耐え切れなくなれば、神に別れを告げていきます。
ガールフレンドの視線を気にして聖書を捨てた私なんかとは比べ物にならない
人生の困難や迫害の中で、神に別れを告げ、聖書を捨てざるをえないことがあります。
この挫折を経験しない人は一人もいません。
イエス自らがそれを予告しているのです。
みんな、わたしにつまずきます、と。


しかし同時にイエスは私たちと再び会うことを約束するのです。

「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

十字架で殺されるイエスを見捨てて逃げだした弟子たちは、
失意のうちに故郷ガリラヤへ帰っていき、そこで復活したイエスに出会います。
彼らを待っていたイエスの姿は
、挫折や別れ、つまずきが人生の終わりではないことを伝えるものでした。
この再会によって、挫折したはずの弟子たちが再び立ち上がっていくのです。

かつて聖書を捨ててしまった私にも再び聖書を手にし、
再会する日が用意されていました。
ガールフレンドに逃げられて人生のゴミ捨て場にいるような気分で腐っていた日々。
私を待っていたのは他でもない聖書だったのです。
この再会を通して私は知りました。

挫折の果てに神との再会があること、
この再会こそ人生を再開させてくれるのだ、と。
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by nazarene100 | 2010-04-27 00:00 | ショートメッセージ | Trackback

わたしも痛い

彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ書 53章 5節



「痛いっ!」
ついにやってしまいました。妻の叫び声に振り返ると、
階段から転がり落ちた息子が、頭から血を流しています。
堰を切った様に泣き出す息子、夢中で駆け寄っていく妻、ただオロオロするだけの私・・・。
幸い、大事には到りませんでしたが、なんとも痛々しい出来事でした。
 あの時、「痛い」と叫んだ妻自身の体は実際には傷ついていません。
かといって嘘をついているわけでもありません。
あの瞬間、どんな母親も同じ叫び声を上げずにはいられないでしょう。
わが子の痛みを自分のものとして、母親も一緒に痛んでいるのです。
縫った傷跡を眺めて「私も痛い」と語る母の言葉にも嘘はないでしょう。

「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」
イザヤ書 53章 4節
聖書には、私たちと共に痛み、苦しむイエス・キリストの姿があります。
キリストは十字架の上で、私たちの身代わりに打ち砕かれ、傷つきました。
その打たれた傷によって、私たちは癒されたと聖書は教えます。
キリストは人の苦しみを見て、見過ごしたり、オロオロしたりしません。
天の高みから人を見下ろして、「痛いのかい、じゃあ治してあげようか」とも言いません。
わが子の痛みを自分のものとする親のように、私たちに駆け寄り、
私たちの痛みをご自分のものとしてくださるのです。
私も痛い、と語りかけてくるようなキリストの姿は、痛みや苦しみの中で
私たちが孤独ではないことを教えてくれます。
 
私はこれまで何度も、人生という階段から転がり落ちました。
心がポッキリ折れて、癒されるまで随分時間がかかりましたが、
そんな私の傍らに、いつも駆け寄ってくれるキリストがいました。
一緒に痛んでくださる方がいたからこそ、やがて立ち上がることができました。
人生、転ばないに超したことはありません。
でも転んでしまった時は、心行くまで思いっきり泣き叫んでください。
駆け寄ってくださる方と出会う、最大のチャンスなのですから。


久米淳嗣(学園教会)



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by nazarene100 | 2009-11-01 11:11 | ショートメッセージ | Trackback

アイシテル

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アイシテル
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」
イザヤ書49章15節



色白の美少年(?)だった私は、学校でいじめに遭いました。「白くて気持ち悪い」と笑われるたびにクラスから消えてしまいたくなる思春期の日々。しかしそんな私の辛い思いなど、つゆ知らぬ母はいつも息子に言うのです。「あっちゃん(私のこと)の肌はきれいでうらやましいわ」。人の気も知らないで何を呑気なこと言っているんだと呆れて、私は母に反抗ばかりしていました、でも・・・。
 暗く辛い日々に、絶望して命を絶つことも、暴れて他人を傷つけることもなかったのは、母の言葉があったからなのだと思います。私のことを見捨てずに、「きれいだ」と言ってくれる声は、無意識のうちに私の心の支えとなっていました。たとえクラス全員が僕のことを笑っても、母だけは味方でいてくれる、と。

そんな少年が大人になり、聖書の言葉に出会いますが、甘ったるく感じただけでした。かつてクラスメイトに笑われた私が、神様を笑ったのです。「私の目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)愛している?神様は何を呑気なことを言っているんだと呆れて、聖書を本棚の奥へと押し込んでしまいました、でも・・・。
やがて試練に襲われて、絶望の中にあった私を救ってくれたのは、その愛でした。ご自分を十字架につけて殺そうとする人々を赦し、命を捨ててまでその人々を愛し通した、神の子キリストが気づかせてくれたのです。神様はこんな私の味方でいてくれる、と。

反抗期のわが子を愚かなまでに愛し続ける母親のように。いや、それ以上の愚かさと、大きな愛をもって、神様は私たちを愛してくださいます。たとえ、どれだけ私たちが周りから否定され、傷つけられても。たとえ、どれだけ私たちが神様に反抗し、その愛を嘲笑ったとしても。神様はすべての人に語りかけています。
「わたしは、あなたを忘れることはない」と。

ナザレン教団出版局「ふくいん」2009年6月号より 

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by nazarene100 | 2009-05-25 10:30 | ショートメッセージ | Trackback