カテゴリ:礼拝説教( 1 )

 礼拝説教<要旨>「人を汚すもの」 

2011年3月27日 礼拝説教<要旨>
マタイによる福音書15章1~20節
「人を汚すもの」 久米淳嗣牧師

 今、放射能汚染への恐れから、口に入れる食料品や飲料水へ神経を尖らせています。近くの花見川区の浄水場からも基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたと聞くと私たちは不安になるばかりです。そんな中でこのイエスの言葉はどう私たちの胸に響くでしょうか。想像してみてください。もし、イエスが福島県産のほうれん草と牛乳を手に持って、あるいはコップに摂取制限された水道水を入れて、この言葉を語ったとしたら。「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と。

 現在、日を追うごとに放射能による大気や土壌への汚染の深刻さが明らかにされています。できるだけ正しい情報を得て、特に次世代への健康被害が出ないよう冷静な対応を取りたいと思います。けれども、たとえ放射線を帯びた食物であっても、この私の存在そのものを汚すことはない。(あってはならないことですが)たとえ健康には障害が出たとしても、命そのものを汚すことはできない。むしろ人の存在を汚すとするならば、それは私たちの「口から出るもの」であるとイエスは言うのです。福島第一原発の事故で県外に避難した被災者が、福島から来たと言う理由で、旅館やホテルで宿泊を断られたという問題が起きていると報道されました。
 なんということでしょう。確かに放射能は恐ろしいものです。しかしそれ以上に恐ろしいのは私たち人間の心であり、口から出る言葉です。ある地域から来たという理由で、「この人はに汚染されている」と、拒否し、排除てしまう振る舞いや言葉こそが、相手の存在そのものを否定し、本当の意味で汚してしまうことのではないかと思います。その意味でも、このイエスの言葉は、恐れと不安で混乱している今こそ、私たちが耳を傾けるべきものではないでしょうか。

 マタイ15章では「手を洗うこと」について、イエスとファリサイ派の人々、律法学者たちとのやり取りが起こります。イエスと弟子たちは食事の前に手を洗いませんでした。
それは衛生的な問題というよりも、むしろ宗教的な問題であり、食前に手を洗うことは、汚れた人や物との関わりを断ち切ることをも意味しました。しかしイエスは、自分だけが手を洗うことで関係を断ち切ったりしません。
 むしろイエスは、社会から「汚れた者」と見なされた徴税人や遊女、罪人たちの友として生き、そして最後には呪われし死刑囚、罪びととして、十字架につけられました。あえて手を洗わない側、汚れているとされた側に立ったのです。

 この出来事の少し前、イエスは五千人を超える群集と野外で食事を分かち合いました。選ばれたものだけが参加できるヘロデ大王の宴会と違い、それは様々な人々に誰にでも開かれた食卓でした。社会から排除されのけものにされ、疲れ果てていた人々をイエスが誰彼となく招いていた野外での食事。それは、「汚れなどというレッテルは関係ない。神様はあなたのことをかけがえのない存在として、見守っておられる」という思いが伝わってくる、身も心も温まり、癒される食事だったでしょう。

 残念ながら、原発事故の影響により、「汚染」という言葉をたびたび見聞きする機会がこれから増えて来るのだと思います。汚染・けがれというレッテルが、ある地域に、またこの国に暮らす私たちの身に負わされることになるのかもしれません。しかし、そんな現実があるからこそ、イエスは、あの言葉を語ったのです。
 「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
誰と誰が触れ合っても、人が汚れることなどない。人を汚すものがあるとすれば、それは私たちから出るもの、誰かを排除しようとする言葉や振る舞いにほかならない、と。神は全ての命をかけがえのないものとして愛している。そう伝えてくれるイエスを救い主としてお迎えしたいと思います。

 そして、今後の復興や社会の行く末への不安がある中でもどうしたら悲しみの中にある、疲れ果てた人びとの心と体が癒されていくのか、私たちにすべきことは何かを神に問い、行動していきましょう。手を洗って、あなたと私は違うと関係を絶つのではなく、手を取り合い、共に生きる喜びへ導かれる者でありたいと祈ります。
[PR]
by nazarene100 | 2011-03-27 10:30 | 礼拝説教