クリスマス礼拝

2010年12月19日 礼拝説教
ルカによる福音書2章1~7節
「神の国は、飼い葉桶に」 久米淳嗣牧師

■タチツクス・クリスマス
昨年のクリスマスのことを皆さんは覚えているでしょうか?
私たちは文化センターのいつもの部屋を借りることができず、
和室で正座をしてクリスマスの礼拝を守りました。
今となってはそれも良い思い出ですが、やはり昨年のクリスマスに一番
私たちが驚いたのは建築会社の突然の倒産でした。
前日の24日にその知らせが入り、翌日のクリスマスの25日は設計会社のKさん、
建築会社のIさんと私の三人で、下請けの業者が建築資材を全部引き取っていった後、
まだコンクリートむき出しで、ガランとして何もない会堂に言葉少なに立ち尽くしていた、
あの朝は今でも忘れられません。
肩を落としたお二人をどう慰めていいのか、いやむしろ私の方が慰めてもらいたいような、
何とも言えない気持ちのまま、「どうしたらいいのだろう」と立ち尽くすばかりでした。
とても「クリスマスおめでとう」と言う気になれない、そんな12月25日でした。

先ほどお読みいただいた2000前のクリスマスの出来事も、
「おめでとう」と言える雰囲気ではなさそうです。
イエスをお腹に宿したマリア、
そして彼女を連れて泊まるところを捜し歩いたヨセフもまた
立ち尽くすばかりだったかもしれません。
彼らはその晩、どこにも泊まれなかったのです。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7)

疲れきったヨセフとマリアはどんな慰めの言葉を語り合ったのでしょう。
むしろ彼も彼女も自分の方が慰めてもらいたい、そんな思いでありながらも、
懸命にパートナーを励ましたことでしょう。
そもそも、こんな事態になったのは彼らのせいではありません。
この旅行は彼らが望んで出発したものではありませんでした。

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
(ルカ2:1)

皇帝の命令だから、彼らにはどうしようもありません。
身重のマリアは無理を押して、ヨセフと共に故郷で
住民票の登録をするために旅立ってきたのです。
そもそも喜んで出かけてきた旅ではないのに。
やっとの思いで辿り着いたベツレヘムの町なのに。
そこには泊まる場所がなかったというのです。
一体、どんな思いでイエスを身ごもったマリアとヨセフは立ち尽くしたことでしょう。

■宿屋は満室ではなかった?
この場面は、教会学校で読まれる紙芝居やまた降誕劇において、
宿屋が満室になっていた様子が描かれます。
幼い頃から教会にいらしてる方は何軒もの宿屋を訪ね歩く
ヨセフとマリアの姿をご存知でしょう。
「トントントン、泊めてください」。 「ごめんなさい、うちはもう満室です」。
「トントントン、泊めてください」。 「帰った、帰った!うちはもういっぱいだよ」。
そんなことを繰り返した末に、やっと最後に
優しい宿屋の主人がマリアのお腹に気づいて、言うのです。
「あらあら、お連れ合いさんは妊娠しているじゃないか。
うちも満室で泊められないけれど、家畜小屋なら案内できるよ。さあさあ」。
そうして通された家畜小屋でマリアはイエスを出産し、飼い葉桶に寝かせた、
そんな場面がしばしば思い描かれてきました。

でも聖書には「宿屋が満室であった」とは一言も書いてありません。
確かにこの時期、多くの人々が住民登録のためにベツレヘムに滞在したでしょうから、
街中は人でごった返していたはずです。
でも、人がいっぱいで、どの宿屋にも部屋が一つも空いてないから、
泊まれなかったとは書いていないのです。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
とにもかくにも宿屋には彼らの居場所がなかったというのです。
どういうことなのでしょう。

それは旧約聖書、律法の規定に照らす時、
彼らが泊まれなかった別の側面が見えてきます。
レビ記(12章)に記されている出産の規定によれば、男の子を産む場合でも
産婦は7日間汚れたものとされ、出血の汚れが清くなるまでに必要とされた33日間、
家の中に留まらなければなりませんでした。
もし女の子を出産した場合、更に倍の期間、すなわち14日間も汚れ、
66日間は家から出ることはできないと定められています。
もちろん子どもの誕生は何よりの喜びですが、
しかし同時に女性にとっては汚れの期間とされたのです。
ですから宿屋はそのような人に部屋を提供していたら商売になりません。
他のお客さんは汚れを避けて、その宿屋には泊まらないわけですから。
いま住民登録の帰省客が大勢ごった返している、こんな絶好の書き入れ時に、
いつ出産してもおかしくない女性を泊めて、
部屋を汚したくはないと宿屋は考えたことでしょう。
例え部屋は空いていても、泊めたくない理由がそこにありました。
「トントントン、泊めてください」。 
「帰った、帰った!あなたたちなんか泊めるわけにはいかないよ!」
マリアやヨセフ、そして幼子イエスは、そのように締め出されてしまったのです。

■居場所を失った人びと、奪われた人びと

実際、そういった出来事は聖書の世界だけでなく現代にも起こっています。
数年前、熊本県の温泉ホテルでハンセン病患者の方々が
宿泊を拒否されたというニュースは記憶に新しいことでしょう。
もちろん既にハンセン病は特効薬によって治る病気になり、
また人の接触で感染しないことが明らかになっているにもかかわらず、
宿泊拒否や門前払いをされてしまうということがたびたび繰り返されてきました。
ハンセン病ゆえに強制隔離されて、家を奪われ、さらに宿泊拒否をされてしまう。
そんな彼らの姿と幼子イエスたち聖家族の姿、「二つの情景が重なり合って見えます。」
(参考:荒井英子『ハンセン病とキリスト教』)
              
マリアとヨセフそして幼子イエスには単に部屋がなかったのではありません。
彼らには、自分の居場所がなかったのです。
「あなたはここに来るべきじゃありません」。「あなたはここに居るべきではない」。
そうやって、はじき出され、追い出された存在です。
誰からも迎え入れてもらえない。自分の居場所を奪われてしまった人。
そんなマリアとヨセフそして救い主イエスの姿が
このクリスマスの出来事から浮かび上がってきます。

しかし部屋から締め出されたイエスこそ、クリスマスの意義を豊かに示し
私たちに語りかけてくるのです。
なぜなら、同じように世界から締め出された人、自分の居場所を失っている人、
奪われた人たちの友となるために神の子は地上に来られたのですから。
イエス様は、真っ先にそのような人々のもとへ出かけていきました。

■締め出された者の友・イエス
少し想像してみてください。
イエス様が出会った人々は居場所があったでしょうか。
もしこのクリスマスの夜、
彼らがベツレヘムに来ていたら宿屋に泊めてもらえたでしょうか?
例えば、悪霊に取り付かれて墓場で鎖につながれていた男。
すぐに鎖を引きちぎり衣服を引き裂いていた彼は宿屋に泊めてもらえたでしょうか。
38年間出血が止まらず、汚れた病とされて家から出ることも許されなかった女性。
イエス様の衣に裾に恐る恐る触れた女性。
彼女が触れたものは全て汚れるとされていました。
ベツレヘムの宿屋がそんな彼女に部屋を提供したでしょうか。
他にも罪深い女とされ売春を職業としていた女性、
徴税人の頭でユダヤ人の敵と憎まれていたザアカイ。
イエス様が親しく交わった、そんな罪びとや汚れた人と呼ばれた人たちは、
宿屋に泊まれたでしょうか。
そもそも住民登録することさえゆるされたでしょうか。
きっと「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ことでしょう。
「あなたはここに居るべきではない」と。
外に締め出された救い主イエスはそんな痛みの只中に生まれてくだったのです。
そして居場所が失われた人生を生きなければならない人たちの友となられました。

居場所を奪われるという痛みは、病気に対する差別だけではありません。
容姿や能力のために、また国籍や障碍のゆえに職場や学校、
地域で迎え入れてもらえない。
さまざまな事情で、家庭において、あらゆる人間関係において、
「わたしの居場所はここにはない」という痛みの経験が起こります。
「ここに自分は居てよいのだ」、「私の居場所はここにあるのだ」
と安心することができない。
追い出され、のけものにされ、はじきだされた経験を持つ者ちにとって
イエス・キリストがただ人として生まれたのではない。
飼い葉桶に産まれてくださったことは、どれだけ大きな喜びでしょう。

この飼い葉桶こそ、神の国の豊かさであり、神様の愛を示しているのです。
本人にはどうしようもできない理由で、はじき出されてしまった人々が
誰彼となく招かれて受け止めてもらえる場所。
それがこの飼い葉桶という神の国の意味です。
誰一人として意味無く生まれてきた者などいない。
神様が全ての命を掛け替えのないものとして、この地上に送りだしてくださった。
居場所がなくていい人なんていない。
”あなたはここに居ていいのだ”、”あなたにここに居てほしい”
飼い葉桶という神の国がそう語るのです。
やがて、さまざまな理由をつけて、すぐに人と人とを線引きし、
他人を締め出し居場所を奪うこの世界の罪、私たちの罪と戦うために
イエスは飼い葉桶から立ち上がりました。
そして宿屋から締め出された人々に、真っ先に友になり、
神の国はあなたたちのためにあるのですと伝えたのです。
やがて十字架へと追いやられて、殺されてまで
小さく貧しくされた人びとに寄り添う続けました。
居場所を失い痛みを抱えた人々が、そんなイエス様に出会う中で
”こんなわたしが生きていて良いのだ。”
”わたしと共に生きてくれる人がいるのだ”と、人生を回復していったのです。

■この世界を宿屋ではなく、飼い葉桶に
私たちは今、昨年のクリスマスと大きく異なり、素晴らしい会堂が無事完成して与えられ、
集会を持つことができています。
大きな恵みの中で私たちはこのクリスマスに
二つのことを忘れず、心に留めましょう。
一つは汚れや罪を抱えていようとも私たちは誰もが、この飼い葉桶に招かれ、
キリストが友となってくださったこと。
特に小さく弱くされた人々をこそ、真っ先に暖かく受け止めてくださること。
そしてもう一つ、この会堂を、教会を、ベツレヘムの宿屋とすることなく、
神の国を少しでもあらわす飼い葉桶としてゆくことです。
飼い葉桶に受け入れられた者として、お互いを受け入れあい、
その交わりの中で、人生の居場所を失った人々が、
神様の愛に出会うことができるように。

そしていつの日か、この世界そのものが人を締め出す宿屋ではなく、
互いの存在を喜び、受け入れ合う飼い葉桶となりますように。
そう願い、祈りつつ、キリストの降誕を共に喜び祝いましょう。

メリー・クリスマス!
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by nazarene100 | 2010-12-19 10:30
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