教会からのお知らせ

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宗教に抵抗を覚える人は多いと思いますが、
キリスト教には長い歴史の間、人びとの苦悩と挫折を支え、
それでも諦めずに乗り超える希望を生み出してきた
歴史の積み重ねと生き抜く知恵があります。

生きづらさを憶える方、
そこまで深刻でなくとも日々の生活で心身をホッと一休みさせたい方は
日曜の礼拝へとお越しください。

主日礼拝   毎週日曜 10:30~11:30

◇聖書・賛美歌は教会備え付けのものをお貸しいたします。
 クリスチャンでない方もどなたもご参加いただけます。

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# by nazarene100 | 2018-12-25 00:00

教会施設の利用に関して

現在、学園教会では地域の諸団体に
教会施設をご利用いただいています。

合唱団やピアノ教室の発表会でチャペルを利用されたり、
集会所にて、ヨガ教室、体操教室など、様々な用途で
ご利用いただけます。
教会は営利団体でないので、施設利用料は一切いただいていませんが、
施設維持のために自由意志の献金をおねがいすることもあります。

練習場所や発表会場をお探しの皆様はぜひいつでも
学園教会の礼拝堂・チャぺルや集会所にご見学にお越しください。

連絡先 naz100th@yahoo.co.jp 043-424-0831

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# by nazarene100 | 2017-05-27 12:01 | 教会紹介

学園教会のパイプオルガン・プロジェクトについて

学園教会では、2009年よりパイプオルガン導入を計画してきました。
オルガン建造家であるマルク・ガルニエ氏に依頼し、
昨年2016年9月の、ガルニエ・ジャポン社と契約を済ませ、
現在、建設工事の始まりを待っているところです。

パイプオルガンには、既製品がありません。
一つ一つ設置場所に合わせて設計され建築さます。
学園教会にふさわしく、豊かな賛美が捧げられるオルガンの誕生を教会員一同楽しみにしています。
オルガンのスケッチとディスポジション(仕様)をアップしましたのでご覧下さい。
オルガン建築工事が始まりましたら、その様子などアップしていきます。

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- ディスポジション -

この大きさで基本的な会衆賛美の伴奏が可能です。ストップ数は少ないにもかかわらず、多くのオルガン作品を演奏することができます。もちろん楽器に合った相応しい曲を選ぶことが大切です。

- DISPOSITION -

Mit dieser Größe ist es möglich die Grundgemeindegesangsbegleitung zu dienen. Trotz die geringe Registerzahl wird es möglich sein viele Orgelliteratur zu Spielen. Allerdings ist es notwendig die angepaßten Werke auszuwählen.

2 ManualePedal

10 Register

Umfang Manuale C — f" (54 Töne)
• Umfang Pedal C — f (30 Töne)

Barock progressive Stimmung
• Pedalkoppel I / P
Lampe Notenpult und Fuss Fuss Stange

HAUPWERK
Prästant 6 - 8'
Gedackt 8' (C G Gemeinsam mit Prästant 8)
Octav 4' Superoctav 2'
Mixtur 1 1/2!

KLEINWERK
• Spitzpfeife 8'
Kleinflöte 4'
Quintlein 111/3

PEDAL
• Subbaß 16'
Baß 8' (Transmission vom Subbaß 16' + letzte Octave von 8')


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# by nazarene100 | 2016-10-02 15:16 | 教会紹介

誰でも、行って、いいんだよ

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誰でも、行って、いいんだよ

「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイによる福音書 11章28節

ロシアに滞在していた時、現地の友人に連れられて、
ロシア正教会の礼拝に出席しました。
一歩足を踏み入れ、美しく広がる大聖堂の内部に圧倒されている私を尻目に、
友人はさっさと前方の祭壇に進んで行き、蝋燭に火を灯して、祈りを捧げています。
一人取り残されてしまった私。当時クリスチャンでなかったので、
どう振舞ってよいのかも分からず、聖堂の後ろで友人の帰りを待つことにしました。
すると、いつから私のことを眺めていたのでしょうか、
一人のお婆さんが話しかけてきました。
なかなかロシア語が上達しなかった私にも良く分かる、ゆっくりとした口調ではっきりと。
しわだらけの飛び切りの笑顔で。「誰でも、行って、いいんだよ。」

それから数年後の日本で、大きな悩みを抱えていた私は教会の扉を叩こうとしていました。
ところが教会の回りを行ったり来たり・・・。
だって中の様子が見えず、牧師がどんな人なのかも分からないのに、
教会に入っていく勇気はとても湧きません。
道行く人の目も気になって、玄関の前に立つことすら、なかなか出来ません。
そんな小心者の私の心に甦ってきたのは、あの日のお婆さんの声です。
「誰でも、行って、いいんだよ。」

あの声を通してイエス・キリストが語ってくださったのだと信じています。
なぜならキリストはこう語ったからです、
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストはすべての人びとの身代わりとなって十字架に掛かって殺されました。
それはキリストを信じた弟子のためだけの、身代わりではありません。
キリストと敵対し、信じないで侮辱する人々をも愛して、
十字架の上で彼らを赦して死んでいったのです。
すべての人が神様に愛されていることを伝えるために。
このキリストの十字架の死によって、
神様はすべての人を赦し、救いを約束してくださいました。

ですから、どこかで十字架を見かけたら思い出してください。
これは今を生きる私たち、どんな人でも神様に愛され、
招かれている“しるし”だということを。
そして、あなたの心にいっぱい抱え込んだ重い荷物を、
神様のもとへと降ろしに来てください。
気休めなんかじゃない、心の奥底からの休息を味わうことが出来るでしょう。

え?自分なんかとても神様の前に立つにふさわしくないって?
そんなことないですよ。
「誰でも、行って、いいんだよ。」


ナザレン教団出版局「ふくいん」1月号より 
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# by nazarene100 | 2016-01-01 10:30 | ショートメッセージ

 礼拝説教<要旨>「人を汚すもの」 

2011年3月27日 礼拝説教<要旨>
マタイによる福音書15章1~20節
「人を汚すもの」 久米淳嗣牧師

 今、放射能汚染への恐れから、口に入れる食料品や飲料水へ神経を尖らせています。近くの花見川区の浄水場からも基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたと聞くと私たちは不安になるばかりです。そんな中でこのイエスの言葉はどう私たちの胸に響くでしょうか。想像してみてください。もし、イエスが福島県産のほうれん草と牛乳を手に持って、あるいはコップに摂取制限された水道水を入れて、この言葉を語ったとしたら。「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と。

 現在、日を追うごとに放射能による大気や土壌への汚染の深刻さが明らかにされています。できるだけ正しい情報を得て、特に次世代への健康被害が出ないよう冷静な対応を取りたいと思います。けれども、たとえ放射線を帯びた食物であっても、この私の存在そのものを汚すことはない。(あってはならないことですが)たとえ健康には障害が出たとしても、命そのものを汚すことはできない。むしろ人の存在を汚すとするならば、それは私たちの「口から出るもの」であるとイエスは言うのです。福島第一原発の事故で県外に避難した被災者が、福島から来たと言う理由で、旅館やホテルで宿泊を断られたという問題が起きていると報道されました。
 なんということでしょう。確かに放射能は恐ろしいものです。しかしそれ以上に恐ろしいのは私たち人間の心であり、口から出る言葉です。ある地域から来たという理由で、「この人はに汚染されている」と、拒否し、排除てしまう振る舞いや言葉こそが、相手の存在そのものを否定し、本当の意味で汚してしまうことのではないかと思います。その意味でも、このイエスの言葉は、恐れと不安で混乱している今こそ、私たちが耳を傾けるべきものではないでしょうか。

 マタイ15章では「手を洗うこと」について、イエスとファリサイ派の人々、律法学者たちとのやり取りが起こります。イエスと弟子たちは食事の前に手を洗いませんでした。
それは衛生的な問題というよりも、むしろ宗教的な問題であり、食前に手を洗うことは、汚れた人や物との関わりを断ち切ることをも意味しました。しかしイエスは、自分だけが手を洗うことで関係を断ち切ったりしません。
 むしろイエスは、社会から「汚れた者」と見なされた徴税人や遊女、罪人たちの友として生き、そして最後には呪われし死刑囚、罪びととして、十字架につけられました。あえて手を洗わない側、汚れているとされた側に立ったのです。

 この出来事の少し前、イエスは五千人を超える群集と野外で食事を分かち合いました。選ばれたものだけが参加できるヘロデ大王の宴会と違い、それは様々な人々に誰にでも開かれた食卓でした。社会から排除されのけものにされ、疲れ果てていた人々をイエスが誰彼となく招いていた野外での食事。それは、「汚れなどというレッテルは関係ない。神様はあなたのことをかけがえのない存在として、見守っておられる」という思いが伝わってくる、身も心も温まり、癒される食事だったでしょう。

 残念ながら、原発事故の影響により、「汚染」という言葉をたびたび見聞きする機会がこれから増えて来るのだと思います。汚染・けがれというレッテルが、ある地域に、またこの国に暮らす私たちの身に負わされることになるのかもしれません。しかし、そんな現実があるからこそ、イエスは、あの言葉を語ったのです。
 「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
誰と誰が触れ合っても、人が汚れることなどない。人を汚すものがあるとすれば、それは私たちから出るもの、誰かを排除しようとする言葉や振る舞いにほかならない、と。神は全ての命をかけがえのないものとして愛している。そう伝えてくれるイエスを救い主としてお迎えしたいと思います。

 そして、今後の復興や社会の行く末への不安がある中でもどうしたら悲しみの中にある、疲れ果てた人びとの心と体が癒されていくのか、私たちにすべきことは何かを神に問い、行動していきましょう。手を洗って、あなたと私は違うと関係を絶つのではなく、手を取り合い、共に生きる喜びへ導かれる者でありたいと祈ります。
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# by nazarene100 | 2011-03-27 10:30 | 礼拝説教

クリスマス礼拝

2010年12月19日 礼拝説教
ルカによる福音書2章1~7節
「神の国は、飼い葉桶に」 久米淳嗣牧師

■タチツクス・クリスマス
昨年のクリスマスのことを皆さんは覚えているでしょうか?
私たちは文化センターのいつもの部屋を借りることができず、
和室で正座をしてクリスマスの礼拝を守りました。
今となってはそれも良い思い出ですが、やはり昨年のクリスマスに一番
私たちが驚いたのは建築会社の突然の倒産でした。
前日の24日にその知らせが入り、翌日のクリスマスの25日は設計会社のKさん、
建築会社のIさんと私の三人で、下請けの業者が建築資材を全部引き取っていった後、
まだコンクリートむき出しで、ガランとして何もない会堂に言葉少なに立ち尽くしていた、
あの朝は今でも忘れられません。
肩を落としたお二人をどう慰めていいのか、いやむしろ私の方が慰めてもらいたいような、
何とも言えない気持ちのまま、「どうしたらいいのだろう」と立ち尽くすばかりでした。
とても「クリスマスおめでとう」と言う気になれない、そんな12月25日でした。

先ほどお読みいただいた2000前のクリスマスの出来事も、
「おめでとう」と言える雰囲気ではなさそうです。
イエスをお腹に宿したマリア、
そして彼女を連れて泊まるところを捜し歩いたヨセフもまた
立ち尽くすばかりだったかもしれません。
彼らはその晩、どこにも泊まれなかったのです。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7)

疲れきったヨセフとマリアはどんな慰めの言葉を語り合ったのでしょう。
むしろ彼も彼女も自分の方が慰めてもらいたい、そんな思いでありながらも、
懸命にパートナーを励ましたことでしょう。
そもそも、こんな事態になったのは彼らのせいではありません。
この旅行は彼らが望んで出発したものではありませんでした。

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
(ルカ2:1)

皇帝の命令だから、彼らにはどうしようもありません。
身重のマリアは無理を押して、ヨセフと共に故郷で
住民票の登録をするために旅立ってきたのです。
そもそも喜んで出かけてきた旅ではないのに。
やっとの思いで辿り着いたベツレヘムの町なのに。
そこには泊まる場所がなかったというのです。
一体、どんな思いでイエスを身ごもったマリアとヨセフは立ち尽くしたことでしょう。

■宿屋は満室ではなかった?
この場面は、教会学校で読まれる紙芝居やまた降誕劇において、
宿屋が満室になっていた様子が描かれます。
幼い頃から教会にいらしてる方は何軒もの宿屋を訪ね歩く
ヨセフとマリアの姿をご存知でしょう。
「トントントン、泊めてください」。 「ごめんなさい、うちはもう満室です」。
「トントントン、泊めてください」。 「帰った、帰った!うちはもういっぱいだよ」。
そんなことを繰り返した末に、やっと最後に
優しい宿屋の主人がマリアのお腹に気づいて、言うのです。
「あらあら、お連れ合いさんは妊娠しているじゃないか。
うちも満室で泊められないけれど、家畜小屋なら案内できるよ。さあさあ」。
そうして通された家畜小屋でマリアはイエスを出産し、飼い葉桶に寝かせた、
そんな場面がしばしば思い描かれてきました。

でも聖書には「宿屋が満室であった」とは一言も書いてありません。
確かにこの時期、多くの人々が住民登録のためにベツレヘムに滞在したでしょうから、
街中は人でごった返していたはずです。
でも、人がいっぱいで、どの宿屋にも部屋が一つも空いてないから、
泊まれなかったとは書いていないのです。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
とにもかくにも宿屋には彼らの居場所がなかったというのです。
どういうことなのでしょう。

それは旧約聖書、律法の規定に照らす時、
彼らが泊まれなかった別の側面が見えてきます。
レビ記(12章)に記されている出産の規定によれば、男の子を産む場合でも
産婦は7日間汚れたものとされ、出血の汚れが清くなるまでに必要とされた33日間、
家の中に留まらなければなりませんでした。
もし女の子を出産した場合、更に倍の期間、すなわち14日間も汚れ、
66日間は家から出ることはできないと定められています。
もちろん子どもの誕生は何よりの喜びですが、
しかし同時に女性にとっては汚れの期間とされたのです。
ですから宿屋はそのような人に部屋を提供していたら商売になりません。
他のお客さんは汚れを避けて、その宿屋には泊まらないわけですから。
いま住民登録の帰省客が大勢ごった返している、こんな絶好の書き入れ時に、
いつ出産してもおかしくない女性を泊めて、
部屋を汚したくはないと宿屋は考えたことでしょう。
例え部屋は空いていても、泊めたくない理由がそこにありました。
「トントントン、泊めてください」。 
「帰った、帰った!あなたたちなんか泊めるわけにはいかないよ!」
マリアやヨセフ、そして幼子イエスは、そのように締め出されてしまったのです。

■居場所を失った人びと、奪われた人びと

実際、そういった出来事は聖書の世界だけでなく現代にも起こっています。
数年前、熊本県の温泉ホテルでハンセン病患者の方々が
宿泊を拒否されたというニュースは記憶に新しいことでしょう。
もちろん既にハンセン病は特効薬によって治る病気になり、
また人の接触で感染しないことが明らかになっているにもかかわらず、
宿泊拒否や門前払いをされてしまうということがたびたび繰り返されてきました。
ハンセン病ゆえに強制隔離されて、家を奪われ、さらに宿泊拒否をされてしまう。
そんな彼らの姿と幼子イエスたち聖家族の姿、「二つの情景が重なり合って見えます。」
(参考:荒井英子『ハンセン病とキリスト教』)
              
マリアとヨセフそして幼子イエスには単に部屋がなかったのではありません。
彼らには、自分の居場所がなかったのです。
「あなたはここに来るべきじゃありません」。「あなたはここに居るべきではない」。
そうやって、はじき出され、追い出された存在です。
誰からも迎え入れてもらえない。自分の居場所を奪われてしまった人。
そんなマリアとヨセフそして救い主イエスの姿が
このクリスマスの出来事から浮かび上がってきます。

しかし部屋から締め出されたイエスこそ、クリスマスの意義を豊かに示し
私たちに語りかけてくるのです。
なぜなら、同じように世界から締め出された人、自分の居場所を失っている人、
奪われた人たちの友となるために神の子は地上に来られたのですから。
イエス様は、真っ先にそのような人々のもとへ出かけていきました。

■締め出された者の友・イエス
少し想像してみてください。
イエス様が出会った人々は居場所があったでしょうか。
もしこのクリスマスの夜、
彼らがベツレヘムに来ていたら宿屋に泊めてもらえたでしょうか?
例えば、悪霊に取り付かれて墓場で鎖につながれていた男。
すぐに鎖を引きちぎり衣服を引き裂いていた彼は宿屋に泊めてもらえたでしょうか。
38年間出血が止まらず、汚れた病とされて家から出ることも許されなかった女性。
イエス様の衣に裾に恐る恐る触れた女性。
彼女が触れたものは全て汚れるとされていました。
ベツレヘムの宿屋がそんな彼女に部屋を提供したでしょうか。
他にも罪深い女とされ売春を職業としていた女性、
徴税人の頭でユダヤ人の敵と憎まれていたザアカイ。
イエス様が親しく交わった、そんな罪びとや汚れた人と呼ばれた人たちは、
宿屋に泊まれたでしょうか。
そもそも住民登録することさえゆるされたでしょうか。
きっと「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ことでしょう。
「あなたはここに居るべきではない」と。
外に締め出された救い主イエスはそんな痛みの只中に生まれてくだったのです。
そして居場所が失われた人生を生きなければならない人たちの友となられました。

居場所を奪われるという痛みは、病気に対する差別だけではありません。
容姿や能力のために、また国籍や障碍のゆえに職場や学校、
地域で迎え入れてもらえない。
さまざまな事情で、家庭において、あらゆる人間関係において、
「わたしの居場所はここにはない」という痛みの経験が起こります。
「ここに自分は居てよいのだ」、「私の居場所はここにあるのだ」
と安心することができない。
追い出され、のけものにされ、はじきだされた経験を持つ者ちにとって
イエス・キリストがただ人として生まれたのではない。
飼い葉桶に産まれてくださったことは、どれだけ大きな喜びでしょう。

この飼い葉桶こそ、神の国の豊かさであり、神様の愛を示しているのです。
本人にはどうしようもできない理由で、はじき出されてしまった人々が
誰彼となく招かれて受け止めてもらえる場所。
それがこの飼い葉桶という神の国の意味です。
誰一人として意味無く生まれてきた者などいない。
神様が全ての命を掛け替えのないものとして、この地上に送りだしてくださった。
居場所がなくていい人なんていない。
”あなたはここに居ていいのだ”、”あなたにここに居てほしい”
飼い葉桶という神の国がそう語るのです。
やがて、さまざまな理由をつけて、すぐに人と人とを線引きし、
他人を締め出し居場所を奪うこの世界の罪、私たちの罪と戦うために
イエスは飼い葉桶から立ち上がりました。
そして宿屋から締め出された人々に、真っ先に友になり、
神の国はあなたたちのためにあるのですと伝えたのです。
やがて十字架へと追いやられて、殺されてまで
小さく貧しくされた人びとに寄り添う続けました。
居場所を失い痛みを抱えた人々が、そんなイエス様に出会う中で
”こんなわたしが生きていて良いのだ。”
”わたしと共に生きてくれる人がいるのだ”と、人生を回復していったのです。

■この世界を宿屋ではなく、飼い葉桶に
私たちは今、昨年のクリスマスと大きく異なり、素晴らしい会堂が無事完成して与えられ、
集会を持つことができています。
大きな恵みの中で私たちはこのクリスマスに
二つのことを忘れず、心に留めましょう。
一つは汚れや罪を抱えていようとも私たちは誰もが、この飼い葉桶に招かれ、
キリストが友となってくださったこと。
特に小さく弱くされた人々をこそ、真っ先に暖かく受け止めてくださること。
そしてもう一つ、この会堂を、教会を、ベツレヘムの宿屋とすることなく、
神の国を少しでもあらわす飼い葉桶としてゆくことです。
飼い葉桶に受け入れられた者として、お互いを受け入れあい、
その交わりの中で、人生の居場所を失った人々が、
神様の愛に出会うことができるように。

そしていつの日か、この世界そのものが人を締め出す宿屋ではなく、
互いの存在を喜び、受け入れ合う飼い葉桶となりますように。
そう願い、祈りつつ、キリストの降誕を共に喜び祝いましょう。

メリー・クリスマス!
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# by nazarene100 | 2010-12-19 10:30

丹波マンガン記念館

京都市街を抜けて、北へ車を走らせること一時間。
長閑な田園風景が広がる京北町の空には雲ひとつなく、私たちの心も足取りも軽い。
静かな山腹で佇む丹波マンガン記念館を訪ねた。
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 マンガンがいかなる鉱石であるかさえ知らなかった私に、館長の李龍植(リ・リョンシク)さんは丁寧に説明してくれた。
d0110057_9581580.jpg第二次世界大戦中、軍事用製鉄のために、鉄の強度を高めるマンガンの需要が急騰する。マンガン採掘のための極端な労働者不足は、強制連行された朝鮮人と被差別部落の人々によって補われることとなった。しかし坑内労働は過酷さを極め、労働者、家族たちの生活は暗澹たるものであった。そして彼らは鉱山で粉塵を多量に吸った当然の結果として、後に塵肺症状を引き起こす。しかしその職業病が、肺結核と診断されたため、彼らを更なる差別と偏見に苦しめることとなった。ここ丹波マンガン鉱山の労働者であった李貞鎬(リ・ジョンホ)さんが、葬られる墓もなく死んでいった同胞のために建てたのがこの丹波マンガン記念館である。

 残念ながら、この記念館は資金難のため、来年五月に閉館する*。1989年の設立準備の頃も、朝鮮人の強制連行や部落民の労働、塵肺の歴史は街のイメージダウンに繋がるとして、町や京都府に求めた補助は断られた。以来、李さん一家は、時と財をすべてささげて営んできたが、公的扶助を一切受けられぬまま、赤字は解消されず閉館の運びとなった。一つの博物館が無くなるという事実以上に、民族差別と部落差別の不幸な歴史と労働者の苦難を忘却し、消し去ろうとする日本の社会を李さんは嘆く。「『忘れてくれ、忘れてくれ』だけではいかんのと違うか、と思うてます。」
 歴史を心に刻み、記憶を語り継いでいく記念館には、鉱山の歴史や証言とともに、標本や資料が多数展示され、山の中には鉱山労働の様子が再現されている。李さんに案内され、私たちは暗い坑内へと向かった。そこで目にした採掘作業の厳しさと労働環境の悪さに、ただただ声を失うばかりであった。


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「写真1・迷路のように延びている狭い坑道。博物館んいするさい坑道は通り易いよう広がられた。」
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「写真2・通称「狸掘り」。体がやっと入れる狭い穴の中を掘り進めて行く。マスクもせずに無防備で彫り続けた労働者たちは粉塵を吸い続けた。」
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「写真3、4・岩盤崩落防止のために丸太を組んでいく。」
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「写真4・掘った鉱石を手押し木馬で運搬するのは女性や子どもの仕事だった。」


暗く、天井の低い鉱山を抜け出た瞬間、目がくらんだ。眩しい陽光に目を細めながら深呼吸をして、空を見上げてみる。相変わらず雲ひとつないが、今は空が重くのしかかってくるのは気のせいだろうか。先ほどまで足取りも軽やかに私が歩いていた道は、鉱山労働者が100キロとも言われる重さマンガンを背負って、駅まで運んだ道だったとは。


背中に担いだのは鉱石だけではない。戦中戦後の苦難の歴史と今なお続く差別と無理解をも彼らは背負い続けている。

イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。
人には背負いきれない重荷を負わせながら、
自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
あなたたちは不幸だ。」
ルカによる福音書11章46‐47節

(『日本ナザレン教団 社会委員会報』2008年8月号より転載)

*追記
已む無く閉館となった丹波マンガン記念館ですが、明るいニュースとして再び開館させようという動きが起こったことが伝えられました。
「丹波マンガン記念館再建ページ」

2011年4月の再開館を目指して、再建委員会が結成されて、活動を始めています。
賛助会員や応急工事費の募金を募集していますので、関心をもたれた方は是非ご協力ください。
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# by nazarene100 | 2008-08-01 00:00