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2023年6月18日主日礼拝三位一体後第二主日

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2023年6月18日主日礼拝三位一体後第二主日
【神をたたえる】  
前  奏
招きの詞
賛  美  333「神の時の流れの中で」
罪の悔い改めの祈り
賛  美  171「今日まで守られ」
主の祈り

【神の言葉】
み言葉を求める祈り
交読詩編  2 詩編第8篇 
賛  美  147「イエス君は」
旧約聖書  エレミヤ書24:3-7 
新約聖書  マルコによる福音書13: 28-31          
説  教「夏も近づく八十八夜」

【聖徒の交わり】
信仰告白   使徒信条
献  金  149「いつ主は来り給うや」
報  告
感謝ととりなしの祈り
頌  栄  61「御恵みあふるる」
派遣と祝福
後  奏
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2023年6月18日礼拝説教
「夏も近づく八十八夜 イエスの語る希望としての終末」
エレミヤ書24:3-7、マルコによる福音書13: 28-31  

 説教題は茶摘みの歌ですね、千葉でも歌われるでしょうから年配の方はご存知でしょう。私も静岡の生まれなので小学校で手遊びと共に習いました。「夏も近づく八十八夜」、立春から数えて八十八日、五月頃の春の歌です。「野にも山にも若葉が茂る」という新緑の季節にふと目をやると茶畑も見えてくる。「あれに見えるは茶摘ぢやないか、あかねだすきに菅の笠」と、一番茶を摘む季節を思い起こす歌です。二番の歌詞は「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ、摘まにゃ日本の茶にならぬ」と結ばれます。新緑の季節に、緑を見て、茶畑の方に目を向けて、茜たすきの茶を摘み人を見る、そうした人たちがお茶を積んでくれるおかげで、今日も日本の食卓にお茶が出ると当たり前のように飲んでいるお茶や茶を摘む人に感謝する、新緑の季節に緑を見る中で、そこまで思いを馳せていくことになる歌です。

 イエス様もそういうお話をよくされました。野の花を見よ、空の鳥を見よ。鳥を見てごらん、空の鳥は労働なんかしてない。鳥は収穫をしたり蔵に取り入れたりあちこちに運んだり、そんなことは一切してない。でも天の父は鳥たちを養っているじゃないか。まして神に似せて造った人間を、鳥以上に汗を流してあくせく働くに人間を神様は養ってくれないはずがない。野の花を見てごらん、この花はあの栄華を極めた時のソロモンよりも美しいと。イスラエルの歴史の中で最も栄えた時代の王様よりも一輪の花の方がはるかに美しい。明日は火に投げ入れられてしまう花でさえ神様はこんなにきれいに装ってくださるなら、あなたがたにそれ以上良くしてくださらないはずがあろうか、いいやよくしてくれる、鳥を見てごらん、花を見てごらん大丈夫、心配しなくていい、神様がちゃんとしてくださるんだからというおおらかなイエス様の言葉です茶畑をみたら、イエス様は何と言ってくれたでしょうか。

 今日の聖書の箇所も世の終わりについてのお話しなのですが、恐ろしい話をしているようで、まったく違う、茶畑ならぬ、イチジク見てごらんという話し。
この世の終わりについて教え、いわゆる終末ということについて、イエス様自身が教え、そしてその後の教会もイエス様がやって来る終末を待ち望みました。
しかし、そこで問題が起こります。すなわち、待てど暮らせど終末が来ない、イエス様はすぐ来ると約束していたのに。このことは、最初の教会にとって大変大きな問題でした。そこで教会は終末の教えについてあれこれ考え直し始め、意見が分かれました。いつ来てもおかしくない終末、それが来る兆しがあるから備えようという人たち。それに対して、いつかはわからないと言う人たちもいました。それはもういつかわからない、だけれど、その時まで神様に喜ばれる生き方をしようと。

 今日のイエス様のお話は世の終わりが来るのはわかると言うふうに読めます。いちじくの木を観察すれば夏が近いのがわかる。同じように終末もこの世界を、この時代を注意深く見極めていれば、自ずとその時はわかるものだとイエス様の言葉を教会は受け止めてました。時代状況を見据え、歴史に注意を払うこと。そういう社会性や歴史性に教会が目覚め始めたわけです。このような教会は、歴史の見張り役として社会に警告を与え、悔い改めを迫る。そうやって教会は社会の倫理や道徳に貢献する、そんな役割を果たすようになります。終末がいつ来るかわかるという教会は、教会の外に目を向けるわけです。

 一方で、これは次の段落ですが、イエス様は「その日、その時は、誰も知らない。あなたがたにはわからない」とも言います。こちらの言葉を大切にする人たちもいました。いちじくの木を観察しようが、歴史に注意を払おうが、終末がいつ来るかなんて私たち人間にはわからない。与えられた日々の務めを忠実に果たして行くより他ないのだから、私たちは日常生活の中でイエス様に従い、仕えていこう。そう考える教会は、自分たちの日常的な信仰生活を非常に大切にしました。こうした教会は、より聖書的な教会を形づくろうと努力し、敬虔な信仰生活を送りました。終末がいつ来るかわからないという教会は教会の内側に目を向けました。

 と言うわけで、言うなれば「わかる」教会と「わからない」教会、終末がいつ来るかをめぐって、外に目を向ける人たちと内側を大切にする、そんな教会の大きな流れを生み出すことともなりました。これはどちらが正しいと言う話ではなくて、どちらの主張ももっともなものです。けれど現実ではその主張をもって、現在でもいろいろ意見が対立していたりします。わかる教会とわからない教会で言い争いを続けているわけです。わかる教会は「もっと社会に目を向けろ」と訴え、わからない教会は「いや日常的な信仰生活こそ大事なのだ」と言い返します。この「わかる」教会と「わからない」教会は「社会派」「福音派」というような名前で今でもいろいろなところで仲良く喧嘩していました。今ではだいぶ歩み寄りが起こり、わかる教会、社会派も内側の信仰生活を大切にし、わからない教会、福音派も社会に目を向けるようになってきています。しかし意見が分かれていたのも仕方がないのです。福音書には、一見異なってみえるイエス様の二つの言葉が書かれているわけですから。わかる、わからないどちらの主張も、イエス様の言葉の中にあるのですから、この喧嘩はいつまで経っても終わらないのかもしれません。

 イエス様はそんな教会の対立をどんな思いで眺めているでしょうか。御自身が語った言葉で、受け止め方の違いから喧嘩するとは思っていたでしょうか。今日の言葉の中で、イエス様の思いはどこにあるのでしょう。

いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 13:28-29

 しばしば自然のを題材に語られたイエス様らしい言葉です。これを読んで茶摘みの歌のようだなと私が感じたのもあながち間違っていないと思います。ここで注目すべきは、終末を「夏の実りの時期」と重ね合わせていることです。私たちは終末と聞けば、悲劇的な破局の時を想像します。いまも世界の終末時計というものがあって環境破壊が進んだり、戦争の危機が迫ると、終末時計が1分進みましたとニュースで報道されたりしています。その時に使われる「終末」という言葉は世界の滅亡、破滅の恐怖としての終末です。もし世の終わりがそういうものだとしたら、イエス様は茶摘みの歌のような言葉を言うでしょうか。むしろ、「葉っぱが枯れてボトボトと落ち始めたら冬が来るのがわかる」、そんな風に薄寒くなるような言葉の方が世界の破滅にはしっくり来ます。けれどイエス様は実りの季節である夏を待ちこがれるような言い方で、終末を語ります。夏も近づく八十八夜、いちじくの葉っぱが青々として、夏が近いね、ワクワク、収穫が楽しみだね、わくわく。早くやってこないかなあと。非常に希望に満ちた言葉で、むしろ終末時計の針が進むのを楽しみに待つかのような。そういう言葉遣いをしています。いちじくに希望の光を見ているのです。

 いちじくと言えば、少し前の場面でもいちじくが出てきました。イエス様がベタニア村からエルサレムに上る途中の出来事です。あの時、道端に植えられた実のならない、いちじくに腹を立てて枯らしてしまいました。あの時イエス様は空腹のどん底にありました。ベタニア村という、その名も悩めるものたちの家という村の名前の、非常に貧しい村に滞在していたイエス様はきっと何も食べてなかったのでしょう。いつも貧しい人たちと共に生きようとし、その悩みや悲しみ、屈辱、あるいは希望を共に分かち合おうとしたイエス様は、きっといつもイチジクの実りの季節を待ちこがれていたのだと思います。道端に生えるいちじくは、その枝に実をつけるとき、貧しい人々や寄る辺のない旅人に喜びを、栄養を、命を与えます。だから、終末とはそういうものだよ。大丈夫、ちゃんとやってくる、そのうち実を結ぶ、それを食べる日が来る。そんな終末を、そんな時代の到来を一緒に待ち望もうじゃないか。そこにイエス様の思いを感じる言葉ではないでしょうか。――いちじくの木から教えを学びなさい。

 イエス様が生きた時代のユダヤでも、戦争が繰り返され、先の見えない状況で、恐ろしい終末の予言やデマが行き交い、人々は緊張感の中で己の身を守り、己の救いを確保することに汲々としていました。そんな中でイエスが抱いた終末の希望は、 貧しい人々の中からわき上がってくるような、本当に純粋な命への願い、希望でした。いつの時代も、世の中がおどろおどろしい終末的な空気に満たされるとき、もうみんな自分のことで精一杯にになります。マスクの買い占めなど見るまでもなく、誰しもおのれの救いを確保することに汲々とする、そういう状況の中で、イエス様は実りの季節、その実を分かちあう季節、お茶の葉が豊かに実っている、お茶を摘む人がいて私たちもお茶を飲める、恵みが広がる季節として終末を語ります、いちじく見てご覧、茶畑見てご覧、ほらちゃんと最後には実ってる、世界の終わりに、神様が用意してくださるものはきっと良いもの、あなたの人生を飢えたままにしない、あなたの心を乾いたままにしない、豊かなみのりの季節がやってくるのだから、大丈夫、神様を信頼しようと待ち望みました。この希望の言葉だけは、決して滅びることはないと約束して。

はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。13:30-31

 イエス様は希望、イエスの語る言葉は希望、イエスの待ち望む終末は希望です。この希望の言葉を希望として受け止められないところに、人間の弱さ、罪があります。神が良い実りを与えると言ってくれている、そんな終末の時を、恐ろしいものとか、いつ来るの来ないのと喧嘩をしていて、肝心の豊かな実を受け取ることを願っていない、神の恵みを拒んでしまうことが、的外れな罪の姿なのだと思います。「わかる」教会とと「わからない」教会が言い争う、そんな場所とは無縁なところで、イエス様はいちじくを眺めます。小さくされた人々と共にいちじくの実りを待ちこがれ、希望を分かち合いました。そんなイエス様を私たちは今一度この心に迎えたいと思います。野の花を見よ、空の鳥を見よ、いちじくを、茶畑を見よ、そこに神の変わらぬ守りを、教えを、愛を学びたいと願います。大丈夫、かならず良い実を結ぶと希望を見出すことができますように。


# by nazarene100 | 2023-06-18 10:30 | 礼拝説教

2023年6月11日主日礼拝

★礼拝のYoutubeでの配信が安定していません。ご了承ください。

2023年6月11日主日礼拝三位一体後第一主日
【神をたたえる】  
前  奏
招きの詞
賛  美 37「主よ命の言葉を」
罪の悔い改めの祈り
賛  美 332「主はまことのぶどうの木です」
主の祈り

【神の言葉】
み言葉を求める祈り
交読詩編  25 詩編第37篇 
賛  美  283「主よわがそばをば」
旧約聖書  イザヤ書 13:4-10
新約聖書  マルコによる福音書13: 24-27         
説  教  「選ばれたのは、罪人でした」

【聖徒の交わり】
信仰告白     使徒信条
献  金 149「いつ主は来り給うや」
報  告
感謝ととりなしの祈り
頌  栄62「天つ み民も」
派遣と祝福
後  奏
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2023年6月11日「選ばれたのは、罪人でした」 マルコによる福音書13:24-27

 イエス様は自分で自分のことを何と呼んだかご存知でしょうか。だいたい私たちは普段、「私/俺/僕」と自分を指し、たまに自分のことを名前で呼んで、久米にお任せくださいとか言ったりもしますね。あるいは立場で呼んで、「先生はね」、「お母さんはね」と自分のことを読んだりする。イエス様は自分のことを大抵、「私は」と語りますが時折、別の呼び方をします。そう、それが今日出てきた「人の子」です。多分、本名のイエス以外で唯一、別の呼び方で自分を表現したのがこの「人の子」。

 ご自分を指して、「神の子」とは言っていません。マルコによる福音書も「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と始まりますが、あくまでも周りの人がイエス様を指していう時の言葉です。荒れ野の誘惑の時に悪霊が、「神の子だったら石をパンに変えてみろ」と言ったり、病人にとりついた汚れた霊が「神の子イエス、構わないでくれ」と叫んだり。そうそう、何より、イエス様の洗礼の場面。天が開いて、「これはわたしの愛する子」と神様の声がして、神の子と呼ぶ。捕まったイエス様が裁判にかけられた時も「お前は神の子なのか」と尋問されてもそれは「あなた方が言っていることだ」としか言いません。最後、十字架の上で死んだ時、それを見ていたローマの兵隊が「本当にこの人は神の子だった」と告白し、最後まで周りの人たちは神の子と呼びました。他にも「ダビデの子」とユダヤ民族の王様を指す言葉や、「メシア」これも同じ王様を指す「油注がれた者」、救い主とも呼ばれています。でも自分ではまず言わない。怪しげな宗教団体の教祖様あたりは自分で言っちゃいそうですけど、イエス様は言わない。一種の比喩でご自分を「羊飼い」とか「命のパン」とたとえたりもしますが、称号、肩書き的なもので唯一、自分のことを「人の子」と言うのです。

 何故だろうと思うのですけれど、お気に入りだったのでしょう。人の子には、二つ、意味があると考えられています。一つは、世の終わりにやってきてこの世を裁く、メシアを当時そう呼びました。ダニエル書7章に登場する言葉なのですが、世界の終わりにやってきて、正しい人を苦難から救い出す、メシアです。多分、この意味でイエス様は使っていたのだろうとされます。もう一つの「人の子」と言う呼び名の意味は文字通りです。日本語でも人の子と言ったら、たとえば悪人を指して、「あんな悪人だけど優しいところもあって、あの人の人の子だったのね」と言ったり、つまり、人間という意味で使われる言葉です。エゼキエル書でも神様は何度も何度もエゼキエルのことを「人の子」と呼んでいます。人よ、人間よと文字通り表現する、「人の子」という使われ方もあるわけです。ですから、どッちの意味でイエス様が使っていたのかわかりませんが、どんな時に使っていたのかははっきりしています。世界を裁く人の子、というみんながもってるイメージをひっくり返そうとする時です。正しい者を救い出し、罪人を滅ぼす、審判者、メシアである「人の子」。それは聖書が言っていることなので間違いことではあるのですが、イエス様の伝える人の子はずいぶんイメージが違っています。

 ある日、イエス様の周りに大勢の人が病気を癒してもらいに集まっている時。人が家の中にも外にも溢れていたため、体が動けなくなった人を友人たちがベッドごと屋根を引き剥がしてイエス様の目の前に連れてきました。するとそこでイエス様が一言、「子よ、あなたの罪は赦される」と言葉をかけます。律法学者の先生たちが「おいおい、罪を赦せるのは神様だけだぞ、冒涜するな」と怒るとイエス様は言うのです。人の子は地上で罪を赦す権威、力を持っているのだと。弟子たちは心の中で、「いやいや、人の子は罪を裁くためにやってくるのに、イエス様、自分のこと、人の子と呼びながら赦しちゃったよ」と思っていたかもしれません。

また、ある日の安息日、お腹を空かせた弟子たちが道端の麦の穂をつまみ食いした時、ファリサイ派の人たちが、「だめだろ、安息日に労働をしてはいけない」と注意してくる。お腹空かせて苦しんでいるのに、安息日だから麦も摘んだらいけないのか。律法という聖書の掟によればダメなのですけれど、イエス様は宗教の決まりに伝統に縛られていません。文字通りには受け取らない。安息日は人のために定められた。人が仕事を休み、回復する安息日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではないんだぞ。だから人の子は安息日の主でもある。人間が安息日の主人公、人の子は、そんな安息日を取り戻す、安息日の主だというわけです。他にも人の子は仕えられるためではなく、仕えるためにきたのだと教えて、イエス様は弟子たちの模範として、人のために、誰かのために生きる姿を見せました。そして極め付けが、人の子は必ず多くの苦しみを受ける、人の手に引き渡され殺される宣言。ご自分の十字架の苦難を予告した時にも、自分のことを人の子と呼んでいます。

 天から世の終わりにやってくる裁きの「人の子」の印象とずいぶん違いませんか?罪人に天から裁きの火を降らせて、滅ぼすのではなく、人の子は地上の罪を赦す、そしてがんじがらめの宗教の規則から解き放つ。さらには人に仕えていく、奴隷がそうするように人のために働き、挙げ句の果てに多くの人の身代金として、人々の代わりに十字架で苦しむ。ご自分のことを要所、要所で「人の子」と呼ぶことで、人の子のイメージを塗り替える、まったく新しいものに変えているのです。世の終わりに、最後の最後に、散々苦しんだ挙句にやってくる人の子が、冷徹な裁判官、地獄の閻魔様だとしたら。人の子は救い主でも、最後の希望でもなく、最後のとどめ、絶望です。あの屋根を引き剥がして友人たちに連れてこられた病人はどうだったでしょう。病気というのはその人の罪のせいでかかると考えられていた。自分も周りも、こんな醜い人間だから苦しむのだと心のどこかで思っていた。人の子イエスはその人を前にして、違うよ、あなたのせいじゃない、あなたの罪は赦されてる、そうやって宣言する。あるいは食べ物に困る、生活に困る、どうしても麦の穂を許された分だけ摘んで食べたい、たった一握りの麦を摘むだけでも、宗教の決まりでダメなのですか。そんな宗教は何のためにあるのか、安息日という救いの教えは何のためにあるのでしょう。違うよと人の子イエスは言うのです。安息日の主人公は私だ、あなたたち人間だ。働かざるを得ない、あなたたちが責められることはない。苦しみの果てにやってくる人の子はそういう存在ではないでしょうか。いつ滅びてもおかしくないこの世界に必要なのは、そんな人の子ではないでしょうか。

今日のイエス様の人の子発言は、これまで続いてきた世の終わりについての教えです。

それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。(13:24,25)

 このイエス様の言葉遣いは当時の典型的な世の終わりの表現です。聖書にこう書いてあるからと言って、本当に星が空から落ちてくるとか、太陽や月の光がなくなると文字通りに思っている人は、イエス様の時代にもいません。同じ時代のユダヤ教文学にもそっくりな表現が出てくるのでかなり一般的な言い回しです。太陽、月、星というのはこの世界において重要なもの。その太陽とか月とか、星が、揺らいで暗くなると表現される、すなわち、絶対大丈夫と思っていることが揺らぎ、強大な権力を持っていたものが滅び、これまでの常識では先行きが見えなくなるお先真っ暗な世界となるということ。私たちの日常が、世界が、価値観が崩れ落ちそうな激動の出来事を、文学的に表現したのがこの太陽や月星の揺らぎ、暗くなる様子です。いまのこの時代も、月も星も輝かない、先行きが見えない、絶対大丈夫だと思っていたものも信頼できなくなる太陽が暗くなる時代かもしれません。

 イエス様はそんな時代を人は生きなけれなばならなくなると前もって予告します。 世界が滅びるかもしれない、そう思えてくる戦争とか地震はある。悲しい殺し合いも起こってしまう、でもそれが終わりではない、世界の最終目的地じゃない。だから逃げて生き延びろという話をイエス様はしてきました。そんなゆらぎ、暗くなる世界を生きる人たちが、最後の最後、行き着いたところで、戦争や災害で人々が苦しみ、心が乾き、涙も枯れ果てたところで、天からやってくる救世主は、何をしにやってくるのでしょうか。呑気に職務質問のようなことをするのでしょうか?「あなたは良いことが30%、わるいこと70%、残念、地獄行き!」これまで戦争や災害で多くの人が命を落とし、どこに神がいるのかと人々が叫ぶ時も放っておいて、やっと最後にやってきたと思ったら、さらに人々を絶望へと追いやるために天から降りてくるのでしょうか。「人の子」にそんなイメージもあったかもしれない、でもイエス様はこれまで「人の子」のイメージを変えてきました、自分で自分のことを人の子と呼んで。違うよと。最後の最後、人の子が、私が必ずやってくる、見捨てずにくると希望を語ります。

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(13:26-27)

 最後の最後、「そのとき」、絶望の果てに、「そのとき」、苦しみの終わりに、他でもない、あの人の子がやってきます。罪を赦し、がんじがらめの人間を解き放ち、人に仕え、人の罪の罰を代わりに受けて十字架で苦しむ人の子が、やってきます。何のために?地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを呼び集めるために。違うよ、こんな戦争ばかりの世界が世界の終わりじゃないよと苦しみがあなたの人生の意味じゃないよ、逃げて良い、生きよと人の子は、人々を呼び集めます。選ばれた人たちを。この選ばれた人たちと聞くと、ついつい教会はクリスチャンのこと、とか、信仰深い、清く正しい人たち、立派な人を選ばれた人と考えてしまいます。けれど、それにも「違うよ」とイエス様は言ってくださるでしょう。彼によって、あの人の子によって、私イエスによって、「選ばれた人たち」を呼び集めると言っているのですから。

 町一番の嫌われ者だったザアカイの名を呼んでお家に泊まったイエス様、ご自分を裏切るユダを「友よ」と呼んだイエス様、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために私はやって来たと語ったイエス様。そんなイエス様が、人の子が、私たちの世界の苦しみの果てに、呼び集めにやってくるのですから、そこで呼ばれるのは誰なのかはもう明らかでしょう。ずるく、迷い、裏切り、悩みながら罪を犯し、懸命に生きる、我ら罪人、人間です。私たち「人の子」以外に誰がありましょうか。もちろん、最後には悪は滅ぼされます。でもそれは私たちではない誰かではなく、私たちの中にある悪、私たちが滅ぼされて、新たにされるため。最後にやって来て、よく耐え抜いたと呼び集めてくれるのは、あの人の子イエスです。だからこそ、イエス様は救い主、イエス・キリストです。

最初に、私は人の子には単純に人間という意味もあると話しました。おそらくイエス様はその意味も込めて、ずっと語っていたのだと思います。もちろんご自分のことも指していたでしょうけれど、深いところで、私たち人間の生き方を教えていたのだと思います。人の子は赦して愛す、人の子が・人間が安息日の主人公、人間は人間を決まりでしばりつけたりしない、人の子は、人は人に仕えるために生きる、誰かの苦しみを代わりに背負うこともできる、私はそうする、人の子として。そんな風にイエス様は私たちに、神に信頼して、神の与えた命を重じて生きる人の道を教えてくれていたのかなと思ったりします。そうであるならば、今日の最後の言葉、人の子は天使を遣わして、みんなを呼び集める。この天使の役目を私たちは与えられているのかもしれません。苦しみ抜いた人、世界の終わりを経験した人、病の中にある人、そんな太陽が暗くなるような経験をした人のところに送り出される、これもまた選ばれた罪人、私たち人の子の使命なのだと信じます。


# by nazarene100 | 2023-06-11 10:30 | 礼拝説教

2023年6月4日主日礼拝

2023年6月4日礼拝説教「イエスてんでんこ」
エレミヤ書5:26-31、マルコによる福音書13:14-23

 説教題の「てんでんこ」という言葉。お聞きになったことがある方も多いと思います、私も東日本大震災でその言葉を知りました。てんでんこというのは、てんでばらばらという意味の東北の言葉です。津波がやってきたら、命てんでんこ。津波てんでんこ。家族がどうしてるとかあの友達はどこかなどと気にしていないで、他人に構わず逃げろ。とにかくそれぞれが自分の命を守るために、高いところへ、山へ、高台へ。てんでばらばらに逃げなさいという教えです。他の人はどうでもいい自分勝手な教えではなくて、あなたが逃げることで、他の人たちも、あの人もきっと逃げてるはず、私も逃げるとそれぞれが自分の命を守る行動を取ることで、結果、みなが助かる確率が高まるということでしょう。その教えが行き渡っていた小学校でしたか、子供たちがバラバラに山に逃げて助かった、そんなエピソードが伝えられていました。

 実はイエス様も命てんでんこ、津波てんでんこと教えていたというのが今日の聖書です。ここを読むと世の終わりのような出来事、苦難が描かれています。その内容とかいつくるのかという終末の出来事ばかりに気を取られがちですが、イエス様は怖がらせるために語っているのではありません。逃げろ、命を守れ、生きろという思いがここにはあります。

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(13:14)

 津波ではありませんが、山へ逃げなさい。屋上にいる人も、家の中に入ろうとする人も畑にいる人も、赤ちゃんを連れた人も、妊婦さんも、みんなてんでんこ。あなたの命を守るために、その日には山へ逃げなさいとイエス様は教えます。この「逃げなさい」という言葉は現代においてもとてた大切な言葉だと思います。報道やまた身近なところで、苦しみ痛ましい思いをしている人の知らせを聞くたびに、そんなに苦しむ前に逃げて欲しかったと思わずにいられません。学校から、職場から、あるいは家庭から、理不尽ないじめや不当な暴力、そんなものに耐える必要もなく、訴えたり戦う力がないときには逃げる、或いはそうして逃げた人を責めない、逃げることを良しとする社会であること、我々であることがもっと必要であると感じています。聖書も言っています。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリ10:13)

 いじめとかハラスメント、そんなものは神の試練ではありません、ただの犯罪、暴力です。これも神様からのものとして耐える必要なんかなくて、むしろ逃れる道をゆくべきです。イエス様も「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と逃れの場、隠れ家として神様のもとでこっち来て休みなさいとおっしゃってる。だから、逃げるというのは決して意気地なしとか、無責任ではなく、神の命令、今日のところでもイエス様はそれぞれ逃げなさいと命じておられます。しかしいつ逃げるのか、それを不思議な言い回しで伝えています。

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――

 マルコによる福音書を読んでいる人は、わかりますよね、お察しください、読者よ悟れと言っています。しかし2000年の時を隔てると流石にわかりません。この「憎むべき破壊者」は旧約聖書ダニエル書に出てくる表現です。そしてこれは実際に歴史上に起こった出来事でした。しかも繰り返し、繰り返し起こって、マルコによる福音書が書かれた時代にも起こりました。だから、言わなくてもわかりますよね、悟ってくださいねという書き方をします。

 イエス様が登場する数百年前です。あのアレキサンダー大王が聖書の舞台を含む地中海世界全てを支配した後、世界はその後継者の国に分割されました。その時代に、ユダヤを支配したシリアの王様が自分に似せたギリシアの神ゼウス像をエルサレム神殿に実際に建てたのです。さらにはユダヤ教の禁止令が出されて、安息日も守れない豚肉も食べされられるそんな大迫害による苦難の時代を経験しました。マルコ福音書が書かれる頃にも今度はローマ皇帝の像がエルサレム神殿に運ばれそうになったり、実際、この福音書が書かれる前後にはユダヤ戦争でこの神殿は破壊され、ローマの軍隊が踏みつけることとなりました。憎むべき破壊者が、聖なる神殿、立ってはならない所に立つこれは何度も繰り返されてきたのです。そしてそのたびに人々は抵抗をしました。ユダヤの独立を守るため、怪我された神殿をとりもどすため。 抵抗して多くの人たちが悲惨な死を遂げます。母親の目の前で七人の息子が殺される場面や或いはエルサレムに籠城した兵士だけでなく、母親と赤ん坊はここでは話せないくらい悲しい仕方で命奪われる様子も歴史書が伝えます。国を守るため、神殿を守るため、憎むべき破壊者に、抵抗し、戦ってきました。そこでいくつもの尊い命が失われてきました。

 けれどイエス様は、戦えと言わない。諦めるなと言わない。憎むべき破壊者が現れたら、逃げろと言います。てんでんこで山に逃げろ、つまり、生きろと言うのです。すべてあなた方は神の息が吹き入れられた神の作品なのだから、逃げて生きのびろ、他人のことを構うな、隣人愛、他の誰かを愛するためにも、人のために生きるためにも、あなたはまず生きろ、逃げろ、隣り人を愛するのはそれからだと言わんばかりに、逃げなさいと命じいます。

 しかし、私たちあまり逃げなさいと聖書から教わってこなかったように思います。耐え忍びなさい、どんなことも感謝しなさいと。信仰を持つというのは十字架を背負うことで、放り投げて逃げることではないと。でも、聖書をよく読むとみんな逃げてるんです。イエス様も実はくりかえし逃げてます。洗礼者ヨハネが捕まったという知らせを聞いてガリラヤに退く、逃げるのです。やがてそのヨハネがヘロデ王に処刑されます。するとまたイエス様は人里離れたところに船に乗って退かれた、つまり逃げたのです。そもそもクリスマスの時も命狙われて一家でエジプトに避難していますけれど。危機が迫る時、イエス様も逃げています。けれど、その逃げた先でガリラヤ伝道が始まったり、五千人にパンを分け与えたり、逃げたからこそ、その先で新しい働きが始まっていくのです。先週、ペンテコステで教会の誕生を祝いましたけれど、あの最初の教会の人々も、都エルサレムで迫害されて、そこから各地へ散らされていく、散らされていくというと聞こえは良いですけれど逃げたのです。でも最初のクリスチャンたちが逃げたからこそ異邦人への伝道、ユダヤ以外にキリスト教が広まります。

 聖書で逃げた人たちを数えたらキリがありません。アダムとエヴァは禁断の木のみを食べて神から身を隠す、逃げたのです。でもそこから楽園を出ていく新しい歩みにつながりました。ヤコブも兄弟から、家庭から逃げていく。しかし逃げる途上で神に出会う。アブラハムの女奴隷ハガルも夫から逃げた先の井戸端でエジプトから逃げたモーセも逃げた土地で神の声を聞く。ダビデもギデオンも、預言者エリヤもヨナも。みんなみんな逃げている。でも逃げたからこそ、命あったからこそ、そこに新しい歩みが与えられます。「逃げるは恥だが役に立つ」というタイトルのドラマが少し前に流行りましたが、ハンガリーのことわざで、問題に向き合わずに逃げることは恥ずかしいと思われるが、逆にそれが最善の解決策になることがあるという意味のようです。聖書に出てくる人は逃げて恥ずかし姿を記されつつも、しかしそれゆえに新しい益となる道を歩みだしました。どうして、こんなにも聖書の人たちが逃げるのか分かった気がしますが、イエス様は逃げるが恥だが役に立つとまでは言っていません。どうして逃げろというのか、そこには偽物が現れるからです。憎むべきは会社が現れるような苦難の時に決まって現れる存在があると。、

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」13:21-23

 これも私たちは最近経験したことではないでしょうか。疫病が襲ったこの数年間、コロナは人口削減、人類滅亡の陰謀とかであるとか、ワクチンにはチップが埋められていて、打つと悪の組織に操られるとか、でも大丈夫、あれを飲めばとか第三次世界大戦がやってくる、でも大丈夫、あの政治家が世界を救うとか。そんなデマやフェイクニュースが飛び交い、人々を扇動する人たちがいました。苦しい時にデマやニセモノが飛び交う。飛びついちゃった人たちは恐怖を利用されてるだけなので罪はない。でも飛びつくことで結果として命を傷つけ、他者を惑わし、家庭や社会、やはり命を脅かす。そんなものに目をくれないで逃げろ。すべては益となるとか逃げた先で新しい出発とかそんなことはいいから、あなたを守るため、他者を守るためにも、命を守れ、逃げろ。

やるべきことから逃げろではない理不尽な苦難、不当な暴力、耐えられない試練、恐るべき破壊者。そんなものは神が与えた試練などではない神が用意する逃げ道をてんでんこ、逃げてください、それがイエス様の言葉、思いなのだなあと私は思う、その理由が、聖書のもう一つの逃げたエピソードです。

もう一つ、一番有名なてんでんこ、皆様、何か思いつきます? イエス様の弟子たちです。イエス様が捕まったとき、それで十字架にかけられてしまいますが、逮捕のときまさにてんでんこ、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。この裏切りをのちに弟子は後悔し、自分のことしか考えられない人間の自己中心的な姿をまざまざと痛み知ることになった出来事です。でもイエス様はそれも知ってた、分かってたのだと思います。ペトロがイエス様のことを知らないと否定することも予告していました。前もって弟子たちの裏切りをわかっていました。でも、十字架の予告をするときにもイエス様は一言も逃げるなとは予告してません。俺が捕まる時、十字架にかかる時逃げずに一緒にいろよとは言わなかった。逃げると知っていた、でもそれで良かったのかも知れません。逃げてしまったからこそ、弟子たちは自らの弱さ、不甲斐なさを知れります。同時に、それでも愛される神の憐れみの大きさ、イエス様の赦しの深さを肌で感じた。だから弟子たちはその後、赦しを生きることができた。逃げるは恥だが役に立つ、逃げるは罪だが、悔い改めとなる、あなたの再生、生き直しとなる、そんな復活の歩みが用意されていたのです。イエス様が捕まる時、「先生を離せー」とつるぎを抜いて戦うことを望んでない、分かってるあなたの弱さも、逃げる恥ずかしさも痛みも後悔もでも大丈夫、逃げた先もまた神様の道。だから苦難のとき、信仰を持っててんでんこしましょう、きっとその逃げた先は神様のみ手の中、私たちはどこまで逃げてもイエス様のもとに、神のもとに、逃げているはずです。そこで守られた私の命、悔い改め、立ち直ったら、今度はこの命を誰かのために燃やしましょう。


# by nazarene100 | 2023-06-04 10:30 | 礼拝説教

2023年6月4日主日礼拝

2023年6月4日礼拝説教「イエスてんでんこ」
エレミヤ書5:26-31、マルコによる福音書13:14-23

 説教題の「てんでんこ」という言葉。お聞きになったことがある方も多いと思います、私も東日本大震災でその言葉を知りました。てんでんこというのは、てんでばらばらという意味の東北の言葉です。津波がやってきたら、命てんでんこ。津波てんでんこ。家族がどうしてるとかあの友達はどこかなどと気にしていないで、他人に構わず逃げろ。とにかくそれぞれが自分の命を守るために、高いところへ、山へ、高台へ。てんでばらばらに逃げなさいという教えです。他の人はどうでもいい自分勝手な教えではなくて、あなたが逃げることで、他の人たちも、あの人もきっと逃げてるはず、私も逃げるとそれぞれが自分の命を守る行動を取ることで、結果、みなが助かる確率が高まるということでしょう。その教えが行き渡っていた小学校でしたか、子供たちがバラバラに山に逃げて助かった、そんなエピソードが伝えられていました。

 実はイエス様も命てんでんこ、津波てんでんこと教えていたというのが今日の聖書です。ここを読むと世の終わりのような出来事、苦難が描かれています。その内容とかいつくるのかという終末の出来事ばかりに気を取られがちですが、イエス様は怖がらせるために語っているのではありません。逃げろ、命を守れ、生きろという思いがここにはあります。

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(13:14)

 津波ではありませんが、山へ逃げなさい。屋上にいる人も、家の中に入ろうとする人も畑にいる人も、赤ちゃんを連れた人も、妊婦さんも、みんなてんでんこ。あなたの命を守るために、その日には山へ逃げなさいとイエス様は教えます。この「逃げなさい」という言葉は現代においてもとてた大切な言葉だと思います。報道やまた身近なところで、苦しみ痛ましい思いをしている人の知らせを聞くたびに、そんなに苦しむ前に逃げて欲しかったと思わずにいられません。学校から、職場から、あるいは家庭から、理不尽ないじめや不当な暴力、そんなものに耐える必要もなく、訴えたり戦う力がないときには逃げる、或いはそうして逃げた人を責めない、逃げることを良しとする社会であること、我々であることがもっと必要であると感じています。聖書も言っています。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリ10:13)

 いじめとかハラスメント、そんなものは神の試練ではありません、ただの犯罪、暴力です。これも神様からのものとして耐える必要なんかなくて、むしろ逃れる道をゆくべきです。イエス様も「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と逃れの場、隠れ家として神様のもとでこっち来て休みなさいとおっしゃってる。だから、逃げるというのは決して意気地なしとか、無責任ではなく、神の命令、今日のところでもイエス様はそれぞれ逃げなさいと命じておられます。しかしいつ逃げるのか、それを不思議な言い回しで伝えています。

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――

 マルコによる福音書を読んでいる人は、わかりますよね、お察しください、読者よ悟れと言っています。しかし2000年の時を隔てると流石にわかりません。この「憎むべき破壊者」は旧約聖書ダニエル書に出てくる表現です。そしてこれは実際に歴史上に起こった出来事でした。しかも繰り返し、繰り返し起こって、マルコによる福音書が書かれた時代にも起こりました。だから、言わなくてもわかりますよね、悟ってくださいねという書き方をします。

 イエス様が登場する数百年前です。あのアレキサンダー大王が聖書の舞台を含む地中海世界全てを支配した後、世界はその後継者の国に分割されました。その時代に、ユダヤを支配したシリアの王様が自分に似せたギリシアの神ゼウス像をエルサレム神殿に実際に建てたのです。さらにはユダヤ教の禁止令が出されて、安息日も守れない豚肉も食べされられるそんな大迫害による苦難の時代を経験しました。マルコ福音書が書かれる頃にも今度はローマ皇帝の像がエルサレム神殿に運ばれそうになったり、実際、この福音書が書かれる前後にはユダヤ戦争でこの神殿は破壊され、ローマの軍隊が踏みつけることとなりました。憎むべき破壊者が、聖なる神殿、立ってはならない所に立つこれは何度も繰り返されてきたのです。そしてそのたびに人々は抵抗をしました。ユダヤの独立を守るため、怪我された神殿をとりもどすため。 抵抗して多くの人たちが悲惨な死を遂げます。母親の目の前で七人の息子が殺される場面や或いはエルサレムに籠城した兵士だけでなく、母親と赤ん坊はここでは話せないくらい悲しい仕方で命奪われる様子も歴史書が伝えます。国を守るため、神殿を守るため、憎むべき破壊者に、抵抗し、戦ってきました。そこでいくつもの尊い命が失われてきました。

 けれどイエス様は、戦えと言わない。諦めるなと言わない。憎むべき破壊者が現れたら、逃げろと言います。てんでんこで山に逃げろ、つまり、生きろと言うのです。すべてあなた方は神の息が吹き入れられた神の作品なのだから、逃げて生きのびろ、他人のことを構うな、隣人愛、他の誰かを愛するためにも、人のために生きるためにも、あなたはまず生きろ、逃げろ、隣り人を愛するのはそれからだと言わんばかりに、逃げなさいと命じいます。

 しかし、私たちあまり逃げなさいと聖書から教わってこなかったように思います。耐え忍びなさい、どんなことも感謝しなさいと。信仰を持つというのは十字架を背負うことで、放り投げて逃げることではないと。でも、聖書をよく読むとみんな逃げてるんです。イエス様も実はくりかえし逃げてます。洗礼者ヨハネが捕まったという知らせを聞いてガリラヤに退く、逃げるのです。やがてそのヨハネがヘロデ王に処刑されます。するとまたイエス様は人里離れたところに船に乗って退かれた、つまり逃げたのです。そもそもクリスマスの時も命狙われて一家でエジプトに避難していますけれど。危機が迫る時、イエス様も逃げています。けれど、その逃げた先でガリラヤ伝道が始まったり、五千人にパンを分け与えたり、逃げたからこそ、その先で新しい働きが始まっていくのです。先週、ペンテコステで教会の誕生を祝いましたけれど、あの最初の教会の人々も、都エルサレムで迫害されて、そこから各地へ散らされていく、散らされていくというと聞こえは良いですけれど逃げたのです。でも最初のクリスチャンたちが逃げたからこそ異邦人への伝道、ユダヤ以外にキリスト教が広まります。

 聖書で逃げた人たちを数えたらキリがありません。アダムとエヴァは禁断の木のみを食べて神から身を隠す、逃げたのです。でもそこから楽園を出ていく新しい歩みにつながりました。ヤコブも兄弟から、家庭から逃げていく。しかし逃げる途上で神に出会う。アブラハムの女奴隷ハガルも夫から逃げた先の井戸端でエジプトから逃げたモーセも逃げた土地で神の声を聞く。ダビデもギデオンも、預言者エリヤもヨナも。みんなみんな逃げている。でも逃げたからこそ、命あったからこそ、そこに新しい歩みが与えられます。「逃げるは恥だが役に立つ」というタイトルのドラマが少し前に流行りましたが、ハンガリーのことわざで、問題に向き合わずに逃げることは恥ずかしいと思われるが、逆にそれが最善の解決策になることがあるという意味のようです。聖書に出てくる人は逃げて恥ずかし姿を記されつつも、しかしそれゆえに新しい益となる道を歩みだしました。どうして、こんなにも聖書の人たちが逃げるのか分かった気がしますが、イエス様は逃げるが恥だが役に立つとまでは言っていません。どうして逃げろというのか、そこには偽物が現れるからです。憎むべきは会社が現れるような苦難の時に決まって現れる存在があると。、

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」13:21-23

 これも私たちは最近経験したことではないでしょうか。疫病が襲ったこの数年間、コロナは人口削減、人類滅亡の陰謀とかであるとか、ワクチンにはチップが埋められていて、打つと悪の組織に操られるとか、でも大丈夫、あれを飲めばとか第三次世界大戦がやってくる、でも大丈夫、あの政治家が世界を救うとか。そんなデマやフェイクニュースが飛び交い、人々を扇動する人たちがいました。苦しい時にデマやニセモノが飛び交う。飛びついちゃった人たちは恐怖を利用されてるだけなので罪はない。でも飛びつくことで結果として命を傷つけ、他者を惑わし、家庭や社会、やはり命を脅かす。そんなものに目をくれないで逃げろ。すべては益となるとか逃げた先で新しい出発とかそんなことはいいから、あなたを守るため、他者を守るためにも、命を守れ、逃げろ。

やるべきことから逃げろではない理不尽な苦難、不当な暴力、耐えられない試練、恐るべき破壊者。そんなものは神が与えた試練などではない神が用意する逃げ道をてんでんこ、逃げてください、それがイエス様の言葉、思いなのだなあと私は思う、その理由が、聖書のもう一つの逃げたエピソードです。

もう一つ、一番有名なてんでんこ、皆様、何か思いつきます? イエス様の弟子たちです。イエス様が捕まったとき、それで十字架にかけられてしまいますが、逮捕のときまさにてんでんこ、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。この裏切りをのちに弟子は後悔し、自分のことしか考えられない人間の自己中心的な姿をまざまざと痛み知ることになった出来事です。でもイエス様はそれも知ってた、分かってたのだと思います。ペトロがイエス様のことを知らないと否定することも予告していました。前もって弟子たちの裏切りをわかっていました。でも、十字架の予告をするときにもイエス様は一言も逃げるなとは予告してません。俺が捕まる時、十字架にかかる時逃げずに一緒にいろよとは言わなかった。逃げると知っていた、でもそれで良かったのかも知れません。逃げてしまったからこそ、弟子たちは自らの弱さ、不甲斐なさを知れります。同時に、それでも愛される神の憐れみの大きさ、イエス様の赦しの深さを肌で感じた。だから弟子たちはその後、赦しを生きることができた。逃げるは恥だが役に立つ、逃げるは罪だが、悔い改めとなる、あなたの再生、生き直しとなる、そんな復活の歩みが用意されていたのです。イエス様が捕まる時、「先生を離せー」とつるぎを抜いて戦うことを望んでない、分かってるあなたの弱さも、逃げる恥ずかしさも痛みも後悔もでも大丈夫、逃げた先もまた神様の道。だから苦難のとき、信仰を持っててんでんこしましょう、きっとその逃げた先は神様のみ手の中、私たちはどこまで逃げてもイエス様のもとに、神のもとに、逃げているはずです。そこで守られた私の命、悔い改め、立ち直ったら、今度はこの命を誰かのために燃やしましょう。


# by nazarene100 | 2023-06-04 10:30 | 礼拝説教

2023年5月28日主日礼拝 聖霊降臨の主日

★礼拝のYoutubeでの配信が安定していません。ご了承ください。

2023年5月28日主日礼拝 聖霊降臨の主日
【神をたたえる】   来れ、聖霊よ
前  奏  Veni creator spiritus
招きの詞
賛  美  136「御霊よ降りて」
罪の悔い改めの祈り
賛  美  417「主の約束」
主の祈り
【神の言葉】
み言葉を求める祈り
交読詩編  10 詩編第31篇 
賛  美  135「御霊は天より」
旧約聖書  申命記16:9-12 
新約聖書  使徒言行録2:1-13       
説  教  「イエスはあの風の中に」

【聖徒の交わり】
聖 餐 式  50「心を高くあげよう」
信仰告白  使徒信条
献  金  257「キリストは生きておられる」
報  告
感謝ととりなしの祈り
頌  栄  63「父 御子 御霊の」
派遣と祝福
後  奏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2023年5月28日礼拝説教「イエスはあの風の中に」
申命記16:9-12、使徒言行録2:1-13

 本日はペンテコステ、聖霊降臨の主日です。十字架で殺されたイエスが、三日目に甦ったあと、弟子たちに約束しました。私が天に帰った後、天から神の霊を送ると。その約束を信じて待っていた弟子たちの上に霊が降って、イエスのことを語りだした日。それを教会の始まりとして記念するのが、この聖霊降臨日です。イエス様のことを伝えはじめたのだから教会の誕生日となるのでしょうけれど、この場面、いろいろ不思議に思うところがあるんです。とりわけ信じがたいのは、大きな風が吹く音がして、炎のような舌が別れて、弟子たち一人ひとりの上にやって来て、その弟子たちがイエスのことを語り出すのですけれど、他の国々の言葉で語り出したと。いま教会でも有志の方々が一生懸命ヘブライ語の勉強をされていますけど、こんな風が吹いてくれたら、炎の舌がもらえたら、勉強なんてしなくて良いという。いったいどんな風が吹いたんだろうと思いますけれど。どうやったらこんなことが起こるのかと野暮な詮索をすることよりも、この出来事が象徴的に表していることの意味を受け取ることの方が大切なのでしょう。

 今日のこの事件の少し前に時計の針を戻してみますと、イエス様が十字架で無残な死を遂げられてから、三日目に甦った。そしてそれから40日間、イエス様と弟子たちが一緒に過ごしています。神の国について、神と共に生きるとはどういうことか教えてもらっていた。この40日間というのは弟子たちにとって幸せだっただろうなと想像します。殺されてしまったと思った先生が、死から起き上がって戻ってきてくれたのですから。しかもイエス様が逮捕された時に見捨てて逃げてしまった弟子たちを、赦してくれて、あの無残な十字架の犠牲は、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくれたのだ、不甲斐ない自分たちが赦されて、またイエス様と共に過ごせるわけです。

 私たちも天に送った愛する家族、教会の友が戻ってきてくれたらどうしましょうか。もう一度ひと目会いたいと思っていたあの人と再会できるのだとしたら。40日とは言わず、4日でもいい、いや4時間でも40秒でもいい、もう一度生きて、目の前でその顔を見て一緒に過ごせたら、どれだけ慰められるでしょう。あの時言えなかったありがとうを、ごめんなさいを伝えられたら、いやもう会えるだけで胸がいっぱいかもしれない。そこへ来ると弟子たちは40日も一緒にまた過ごせたのです、この上ない幸せな日々。でもイエス様がさよならを告げる時がきます。天の神のところに帰ってしまう、でも私はいつもあなたたちと共にいるよと言って。私は帰るけれど、その代わり、天から神の霊をあなたたちに送るからと約束して帰っていく。霊というのは聖書では「息」あるいは「風」と同じ言葉ですから、神様からの風を吹いてきて、神様の息吹が天から送られてきて、離れていても一緒にいるとわかる、そんな感じなのでしょう。
しかし、やっぱり叶うことなら大切な人とは一緒にいたいものです。離れていても、神様の風で繋がってるよと言われても、やはり直接会える方が良いです。
インターネットで離れていてもオンライン会議でいつも繋がれるいうのも良いですけど、やっぱり、対面で直接会えた方が良いとこの数年間誰もが言ってきました。

 でもイエス様は対面だけにこだわらないようで、天に帰って行きます。これが寂しいようですけれど、とても大切なことです。イエスは天に帰った、それは、この地上の肉体がすべてではないということです。もちろん人と人が出会い、直接顔を合わせることは素晴らしいわけですが、愛する人とこの地上で、肉体を持って、直接会えなくなったら、もうその関係は終わるのか。対面で、直接会えることだけが、肉体がすべてなのか、そうではない。もちろんイエス様はオンライン会議がお好きと言うのではありません。目に見えるものが全てと考えてしまうことないよう、イエス様は去っていったのでしょう。地上ではもう会うことはないのだけれど、確かにそこにある目には見えないつながり、
今日のところで言えば、風、息、あるいは舌が発する言葉、
風も息も言葉も何処かから何処かへ届けるもの、つながりを生みます。
神と人は、人と人は、目に見えないもので繋がっている、繋がることができる、
イエス様の最後の約束――風を、霊を送るよ――には
そんな思いが込められているように思います。

さてイエス様が「では、またね」と天に帰ってから10日後、それが今日の場面です。
その時、天から激しい風が吹くような音が天から突然聞こえます。
(音は物体が揺れて空気の波で伝わるものですから、どのみちこの音は風でなのでしょう)、
弟子たちもびっくりしたでしょうね。
イエス様が約束した神の風ですよ。
「待っていないさい」と言った、神の風、神の霊ですから。
もっと美しいパイプオルガンの調べような、或いは頬を優しく撫でるそよ風のような。
聖なる美しい風を想像していたかもしれません。
でも実際は、ドンガラガッシャーン、台風のような激しい風がドカンと吹く。
なんだ、なんだ、地震かと思うような、予想もしていなかった激しい風、
それが神の霊でした。
この激しい風ということにハッとさせられます。
私たち、穏やかな平和な日々を過ごせていると神様が守ってくれている、
でもそんなそよ風みたいな日々だけじゃなくて、突然の嵐や向かい風に出会います。
なんでこんなことがという台風みたいな日々に苦しめられることがある。
弟子たち、この数ヶ月はまさにそんな向い風、人生の嵐だったでしょう。
でも神様はそよ風にもいるかもしれないけれど、そんな激しい風にもいてくださる。
誰も望んでいない、向かい風は悪魔か何かが吹いているのではなくて、
その台風のような激しい風の中にもまた神はいてくださる、
この嵐のまま神は見捨て置くのではなく、この風を通してまた私を導いている。
その意味でこの場面の激しい風は、まさに弟子たちの日々をよく表しています。
さらに不思議なのは炎のような舌べろが出現したというシンボリックな出来事です。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(2:1-4)

「舌」という言葉、ギリシア語でグロッサは「言葉」という意味もあります。
人生の嵐を経験していた弟子たちに、愛するイエスともう肉体を持って会えなくなり、
これからどう生きていけばよいのか、という向かい風にいる弟子たちに、
燃える炎のような言葉が、一人ひとりに与えられていきます。
そうすると、弟子たちは霊に満たされます。
その風に何かイエスの思いを感じたのだと思います、ああイエス様そういうことですねと。
そして、ほかの国々の言葉で彼らは話し出しました。
ちょうどお祭りの季節でしたので、各地から人びとが巡礼にやってきてます。
弟子たちがそれぞれに話している言葉が、各地の人の耳に届いたわけです。
弟子たちはそれまで引きこもっていた部屋から出て、
人々の前で、イエスについて、神について語りはじめていきます。

なぜ弟子たちは外国語が話せるようになったのかと気になりますが、
しかし、注目したいのは、ほかの国々の言葉を語ったという聖書の表現です。
彼らが話したのは自分の言葉じゃない。自分のための言葉じゃない。
ほかの国の言葉、ほかの誰かのためのことばです。
この瞬間、彼らは誰かのために生きるようになっています。
自分たちだけ、弟子たちだけで集まって、部屋の中に閉じこもって祈っていた、
そこから、今度はほかのだれかのための言葉、誰かに届く言葉を語るようになります。
40日間、イエス様が再び会いにきてくれて過ごした日々を幸せだったでしょう。
もう会えないと思っていたイエス様と再会することができた、
裏切りも不甲斐なさも彼らの罪が全て赦されてイエス様は今も共に生きていてくださる、
そんな日々が彼らのためにも必要だったのだと思います。
しかしイエス様は去ってしまう、離れていても一緒にいるとは言いながらも
目には見えなくなる、そんなジェットコースターのような嵐を経験します。
しかしその風、向かい風は、神の息、神様がその背後にいてくださる風なのだから、
どんな向かい風であっても、彼らは見捨てられた存在ではありません。
40日の幸せな日々を経て、彼らは風を受けて、ほかの誰かのための言葉を語ります。

これが教会の始まりの日というのはとても肯けます。
人が神に祈る、神によって救われる、それは何のためなのか。
教会とは何のために、イエス様が建ててくれたのか。
幸せな40日のため?はい、イエス様が共にいてくださる、直接この肉体で味わえる幸せ、
目に見える喜び、手で触れることができる楽しみ、それもまた大切なことでしょう。
でも、そんなそよ風にやさしく揺られながら、自分たちだけで内向きにとどまっていたなら。
教会は生まれていなかったのでしょう。
激しい風に吹かれながらも、イエス様に出会った者として、
イエスに幸せをいただいた者として、今度はほかの誰かのために生きる、
イエス様からいただいたものをイエス様に恩返しするのではなく、
隣りの人に恩送りをする、この時、教会が誕生しました。

イエス様は実際その生き方を以前に約束していました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31

シモンというのは一番弟子のペテロのことです。
サタンが小麦みたいにあなたを奮いにかけることを神様にオッケーしてもらった。
悪魔か何かが私たちを人生をもみくちゃにしてもいいですよと
イエス様は神様にお願いしてあるというのです、めちゃくちゃだなあと思います。
でも大丈夫、それでも信仰がなくならないように、諦めてしまわないように祈っている。
ああ、あの人?あのナザレン教会?嵐が吹いてもいいですよ、神様、私が祈ってますから。
このイエス様の祈りこそ、神様の風だと私は思っていますけれど。
肝心なのはその後です、私はあなたのために祈ってると言った後のイエス様の言葉、
「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力付けてやりなさい」。
40日の幸せな時間、あれは弟子たちが自らの罪深さに打ちのめされ、傷つき、
希望を失っていた日々に、イエス様が現れて、慰めてくれた日々、
自分たちのために祈り、自分の足で立ち上がるための、回復の時でした。
でも立ち直ったら、今度は兄弟を、仲間を、出会う人を励ましなさい。
ほかの人のために生きなさい。
このことをイエス様は以前から、約束し願っていました。
弟子たちは、今まさにその祈りを風の中から受けて、ほかの人を力づけます。

今日、聖霊が弟子たちに降ったというこの出来事。
それは突然、霊的に熱狂した人たちが外国語を話し出した、不思議な日ではありません。
立ち直った弟子たちが、ほかの国々の言葉で語った、
つまりほかの人のために新たに生きるようになった、そこに教会が生まれた日です。

今日も風が吹きます。ある日はそよ風、ある日は向かい風、
しかしその風に、どんな突然の嵐のような風でもそこにイエス様は共にいてくださる、
一人ではない、生きていて良い、生きていることが素晴らしい、
罪赦されて新しく生きたいのであれば、この風を神の風として受けよ、
そうイエス様は語っています。
そしてイエス様との出会いによって立ち直った時、
今度は私たちはほかの人のために生きる、そんな力が与えられる、
私たちはペンテコステの日を生きています。



# by nazarene100 | 2023-05-28 08:53